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「那覇、首里に負けじ」を掛け声に佐喜真實氏 アナウンサーの夢目指しスポーツにも注力、後間秋穂氏 普天間高校(11)<セピア色の春―高校人国記>


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2000年代の普天間高校の体育行事(創立60周年記念誌「並み松」より)

 学校法人沖縄大学理事長の佐喜真實(69)は普天間高校の22期。卓球に熱中した日々が思い出深い。

 1951年、宜野湾市神山で生まれた。普天間小学校の学校行事には米軍がやってきた。

 「米軍のブラスバンドが運動会に来て、応援の演奏をした。学校代表でキャンプ・フォスターに招かれ、米兵のアテンドを受けたこともある。米軍の地域交流の一環だったと思う」

佐喜 真實氏

 普天間中学校に通っている頃は米兵住宅の庭を手入れするアルバイトにも励んだ。普天間飛行場の滑走路で繰り広げられる米軍の演習を校舎から眺めていた。基地、米兵は身近な存在だった。

 67年、普天間高に入学し、理数クラスで3年間学んだ。「同級生のほとんどが大学進学を目指していた。『那覇、首里に負けじ』が掛け声で勉強した。クラスはみな優秀で、ついていくのに精いっぱいだった」と語る。

 勉学と共に力を入れたのが卓球部での活動だった。自家製の卓球台でゲームを楽しんでいたが、スポーツに打ち込むのは初めて。中学の頃までは1回も懸垂ができなかった。

 「うさぎ跳びやジョギング、中部商業高校までのマラソン。先輩にしごかれ、同級生と共に体を鍛えた。体力が付いたのは良かった。感謝している」

 琉球大学に進み、福祉を専攻した。卒業後の75年、琉球銀行に入行。海外研修や東京、海外勤務を経験した。「銀行は畑違いだと思ったが『人間到るところ青山あり』とも言う。琉銀に入って本当に勉強することができた」と佐喜真。調査部長、りゅうぎんビジネスサービス社長、りゅうぎん総合研究所社長などを歴任した。

 「地域共創・未来共創」の理念を掲げる沖縄大学との関わりは約20年になる。「地域づくりに関わっていきたい。公共交通の改善、地域再開発に大学として協力したい」と力説する。

 高校時代の思い出で象徴的なのが学帽とセーラー服。「学帽をかぶって街を歩いた。校訓の『質実剛健』の精神が生きていた。セーラー服は魅力的だった」。共に学び、汗を流した友との関係は今も続いている。

後間 秋穂氏

 沖縄テレビ放送のアナウンサー、後間秋穂(25)は66期。「スポーツと勉強、どちらも頑張った」。文武両道を地で行く高校生活を送った。

 1995年、沖縄市泡瀬で生まれた。泡瀬小学校に通っている頃は、新体操に励んでいた。6年生の時、「足が速いほうがいいよ」という母の助言もあり陸上競技に転向。沖縄東中学校でも陸上を続けた。種目は走り高跳び。「背面跳びにあこがれた」

 2011年、陸上部の活動が停滞気味だった近隣の高校には行かず、普天間高校に進学した。普天間高も部員減など厳しい環境にあったが、黙々と練習を続けた。

 「陸上は個人競技で、全てが自分の責任。私生活も反映される。そういうストイックなところが好きです。どうすれば高く跳べるのかを考えることが楽しかった」

 陸上競技に魅了された後間。グラウンド外でも競技に挑む自分をイメージした。学校での試験の最中も設問を解いた後、答案用紙を裏返して助走する自身のイラストを描いていた。

 それでも「スポーツだけ」と思われるのが嫌で、勉強にも励んだ。夢があった。「小学校の頃からアナウンサーになりたかった」という。小学校6年の時、学校の放送委員になったことがきっかけだ。高校でも「アナウンサーになる」と周囲に話していた。

 高校3年、念願だったインターハイへの出場を果たした。卒業時には特別活動賞をもらった。勉強とスポーツの両立に努めた高校生活が評価された。卒業後、福岡大学スポーツ科学部へ進んだ。

 2018年、沖縄テレビに入社した。自ら取材し、原稿を書き、ニュース映像の編集にも立ち会い、マイクの前に立つ。「自分の感動を伝えることが魅力だ」という。スポーツの現場にも取材に行く。競技者だった後間を知る大会関係者が喜んでくれる。

 「言葉のプロになりたい。日本語のきれいさ、的確さを磨きたい」と後間は語る。自身が掲げた目標に向かって、4年目のアナウンサーは駆け続ける。

 (文中敬称略)
 (編集委員・小那覇安剛)

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