先人の音、独自に学ぶ 歌ヤカラーへの道 上原淳<新・島唄を歩く>


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 1990年代の沖縄音楽ブームは、単にウチナーポップがはやっただけではなく、戦後沖縄音楽の第1世代の、嘉手苅林昌や登川誠仁、大城美佐子といった歌い手にリスペクトするようなかたちでリバイバルされていった時代でもあった。かつてのスターたちの音源がデジタル音源のCDとして数多く復刻された。そんな音源をコツコツと買い集め、自己流で歌や三絃(さんしん)を習得した歌い手がいる。糸満のライブハウスを中心に活動する、上原淳だ。

三絃に取り組む思いなどを語る上原淳=9月、糸満市((C)K.KUNISHI)

 小浜 出身は?

 上原 1979年、糸満市糸満生まれです。昔の漁港があった、漁業が盛んだったところ。

 小浜 代々海人(漁師)かな?

 上原 はい、おじいちゃんは本当の海人でした。おばあちゃんは糸満姉小(あんぐゎー)でした。

 

絶えない伝説

 

 「いつも大きな漁船が数十隻も碇泊し、造船所などもあり、市街も見事で堂々たる街である」とは、海音寺潮五郎著「鷲の歌」(牧志朝忠の評伝)という小説の中での、1960年代の糸満の漁港を描写した記述である。

 「糸満」というと、まさに他の市町村を圧倒する存在感があり、追い込み漁を操って、かつて東南アジアの海を闊歩(かっぽ)した沖縄海人のノスタルジーが喚起させられる。また、民謡「海ヤカラー」に歌われるように、漂着して住み着いたロンドン窟(がま)の異国人が海ヤカラー(魚捕りの名人)で美童達にモテた。とか、アメリカ船によってわざと海に置き去りにされたジョン万次郎を糸満漁師が保護した話など、とかく海にまつわる伝説の絶えない地域である。

 小浜 三絃は身近にあった?

 上原 はい、親父は若い時分は外国のタンカー船に乗っていたけど、僕が物心つく頃には民謡研究所を構えていたので、三絃はおもちゃ代わりでした。

 小浜 お父さんから習った?

 上原 親父は教えなかった。見て覚えなさいと。父の生徒達と一緒にやってました。

 

遊び相手は三絃

 

 一人っ子であった淳にとって格好の遊び相手は三絃であった。友達と遊ぶよりも三絃をいじることが楽しかった。父のお供で行く近隣の祝いの座で、子供芸を披露して、拍手され、おひねりをもらえるのが何よりもうれしかった。また、村の祭りの行事で父と一緒に演奏させられたことなどは「今から思えば本当に懐かしい」と、淳は真顔になった。

 小浜 最初に弾いた曲は何でした?

 上原 8歳の時、結婚式の余興で親父と一緒に「夫婦船」を歌ったんです。拍手喝采を浴びてとても気持ち良かったのを覚えてます。

 小浜 じゃあ学校でも弾かされた?

 上原 はい、当たり前のように。民謡といったら僕で、あだ名が“シャミセン小僧”。上級生になると淳ではなく、“三味(しゃみ)”と呼ばれてました。

 淳にはもう一つ夢中になったものがあった。野球である。小中高と野球に熱中し、高校ではレギュラーとなって毎日汗を流し、稽古がおろそかになることもあった。学校を卒業して仕事に就いても、生活の中で常に三絃を意識した。長間孝雄師の門をたたき、20歳で所属する民謡組織から教師免状も頂いた。

 小浜 当時は沖縄ブームに向かう頃ですね。

 上原 糸満にライブハウスが2軒あって、若い人たちが民謡ライブなどもやっていた。負けてはなるまいと、僕も飛び入りで参加して、実践してました。

 小浜 意識していた歌手はいますか?

 上原 嘉手苅林昌さんですね。CDを何度も聴いて練習した。登川誠仁さん、知名定男さんもよく聴いてました。それから、よなは徹さんです。

歌三絃を披露し、場を盛り上げる上原淳=9月、糸満市((C)K.KUNISHI)

もっと極めたい

 

 2006年、淳は父親のオリジナルをタイトル曲に冠した、ファーストアルバム「親の情け」(KOKUSAI BOUEKI)をリリース。いよいよ本格的に職業歌手の道を歩んでいく事になる。筆者が営んでいた島唄カフェ「いーやーぐわー」(那覇市壺宮通り)に、定期ライブをさせてほしいと、彼が訪ねて来たのは2007年。淳は言う「小浜さんに何度もダメ出しされて、物考えしました」。身近の、民謡をよく知る人達のところへ足を運び、歌の解釈や背景の情報を集めて勉強し直した、と強調した。

 小浜 現在の活動は?

 上原 息子の淳輝(11歳)と親子コンサートの活動をしていたけど、コロナ禍で…。ただ、親に似たのか今野球に夢中になっている。

 小浜 糸満というのを意識して歌っている?

 上原 以前はそういうのはなかったけど、やっぱり昔の糸満、幼い頃に見た市場の光景は目に焼きついてます。また親父のつくった歌に「祭り太鼓」というオリジナルがあり、糸満の風習をうたっていて、気になりますね。

 糸満市のコミュニティーラジオ放送局「FMたまん」にて、毎週木曜日に「上原淳うたいのーし」という番組を受け持っており、ますます漁港の街“糸満”との関わりが深くなってきていると、淳は大声で笑った。

 小浜 これから目標としているのは?

 上原 嘉手苅林昌時代の音楽をもっともっと極めたいですね。
 


完成期に向かう嘉手苅節

恋語(くいかた)れ節(ぶし)
 歌/嘉手苅林昌
 

一、寂(さび)しさや今宵(くゆい)よ 三味線(さみし)な小我友(ぐゎわどぅし)

  弾(ひ)ちば物言(むぬい)なち 情(なさき)かぬさ

 (今宵の寂しさ 三絃だけが我が友 奏でると語り掛ける 愛おしいものよ)

  知(し)らすなよーやー 他所(ゆす)に

  知らすなよーやー 二人が仲

二、幾(いく)ちゃゆちゃなてぃんよ 忘(わし)てぃ忘らりみ

  三味線小片手(さみしなぐゎかたでぃ)よ 姐小片手(あばぐゎかたでぃ)

 (若かりし頃の毛遊び 楽しかった 片手に三絃抱いて 片手に美しい美童)

三、タンメ若妻小(わかとぅじぐゎ)よ 芋掘(うむふ)いがやらち

  ゆらり草刈(くさか)やいよ わちゃくしみてぃ

 (若奥さん 芋掘りに行って ゆっくり草刈り 爺さんヤキモキ)

~後略~

~~肝誇(ちむぶく)いうた~~

 20世紀が終わる頃、上原淳は本格的に三絃に取り組もうと意を決していた。ちょうどその頃、嘉手苅林昌が亡くなった(1999年10月9日没)。一度は生の舞台を見たいと常々思っていただけにショックだった。

 翌年、ビクターより追悼盤CDが2枚リリースされた。「風狂歌人」と「ジルー」。「恋語れ節」はアルバム「ジルー」に収録された、嘉手苅林昌のレコードデビュー曲である。それまでなかなか聞き得なかったSP盤レコードからのデジタル復刻音源であった。淳はこの歌に感銘を受け、触発されて、ますます嘉手苅節にのめり込んで行った。

 復刻に使われた「恋語れ節」のSPレコードのジャケット(といってもペラペラの紙袋)には、本人直筆のメモが記されている。「昭和二十五年六月二十八日、照屋ぬ前のタル普久原の前ぬ屋アサギで録音した物」。1950年といえば、嘉手苅林昌30歳。南洋での出稼ぎ・戦争、そして日本に戻り戦後のドサクサを経て、沖縄へ帰って来て1年の頃である。嘉手苅節が完成期に向かう頃の貴重な音源であることに間違いない。