「慰安婦」はここにいた 渡嘉敷に強制連行、戦後県内で生活 ペ・ポンギさん没後30年 史実継承へ思い新たに


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金夫妻とドライブへ出かけ、休憩のため下車した時のペ・ポンギさん。3人は車中で他愛のない会話をし、よく恩納村の「山田温泉」へ行った。ペさんの数少ない笑顔の写真=1988年前後、本島中部(金洙燮さん撮影、金賢玉さん提供)

 1991年10月18日。那覇市前島のアパートで一人の女性が息を引き取った。裴奉奇(ペ・ポンギ)さん。享年77歳。44年、30歳のときに朝鮮半島から日本軍「慰安婦」として渡嘉敷島に連れて来られた。ペさんの死からきょうで30年がたつ。その間、日本軍「慰安婦」問題の史実をゆがめようとする動きは絶えない。生前を知る人たちは「ペさんを忘れない」と胸に刻み、歴史継承への思いを新たにしている。

 「小柄できれい好きだった」。那覇市副市長の久場健護さん(63)はペさんのことを今でも「強烈に覚えている」という。85年、那覇市役所に採用された久場さんは福祉部保護2課に配属されケースワーカーとして、生活保護を受けていたペさんを3年間担当した。度々、ぺさんの小さな古びた自宅を訪ねた。久場さんの問い掛けにぺさんは視線を反らし気味に淡々とうなずいた。日本の歴史に翻弄されたペさんの生涯を思い、久場さんは会う度に「悪いことをした」との思いが胸に押し寄せた。口にすることはできなかったが、今でもその思いは変わらない。久場さんは涙をぬぐいながら「せめてもの救いは金夫妻がいたことだね」とつぶやいた。

 75年から約17年にわたり、ぺさんを支えたのが朝鮮総連県本部の金洙燮(キム・スソップ)さん=享年78歳、金賢玉(キム・ヒョノク)さん(79)夫妻だった。ある日、ぺさんが2人に言った。「戦争のときよりも、一人で生きてきた今が苦しい」。ヒョノクさんはぺさんの癒えぬ傷の深さを感じた。金夫妻との月日を重ねるにつれ、ペさんは徐々に笑顔を見せるようになった。「意味くじわからんさー」「おいしいさー」。ぺさんの沖縄なまりのある話し方がヒョノクさんの耳に残っている。ヒョノクさんは30年以上前を懐かしみつつ「かわいそうな人だったで終わらせてはいけない」と語気を強めた。

朝鮮新報社の取材に「従軍慰安婦」の体験や戦後の沖縄での日々について語った際のペ・ポンギさん。旧佐敷町津波古のサトウキビ畑のわきに、ベニヤ板で作った2畳ほどの小屋に住んでいた。晩年は那覇に移り、古びた平屋やアパートを転々とした=1977年4月、同町、(同社撮影、金賢玉さん提供)

 ぺさんの死後、日本国内では日本軍「慰安婦」を巡る問題はやまない。2012年、県は首里城公園内に設けた第32軍司令部壕の説明板から「慰安婦」の記述を削除した。

 13年、当時の橋下徹大阪市長が「慰安婦制度は必要だった」と発言した。15年の「最終的かつ不可逆的」な解決とする「日韓合意」。今年に入っては教科書会社5社が「従軍慰安婦」「強制連行」の記述について削除や変更を申請し、文科省が承認した。

 久場さんは日本軍「慰安婦」制度について「必要無かった。ぺさんの失われた人権をどうするのか。それを考え、これからの社会に生かしていくことが、ぺさんへのおわびにもなる」と話した。

 ヒョノクさんも力を込める。「ペさんを忘れないこととイコールで戦争の根本を考えることが大事だ。過ちを二度と繰り返さないために」

 (照屋大哲)


 「沖縄恨之碑の会」が来月、ぺさんの追悼シンポジウムを予定している。
 

故郷の朝鮮半島の方向を指さすペ・ポンギさん。南北統一を願っており「家族がいてもいなくても、ふるさとには帰りたい」と言うことがあった。ぺさんの家族は貧しさのあまり一家離散状態だったという。喫煙者のぺさんの左胸のポケットにはたばこの箱が入っている。小銭も入れて財布兼用として使っていた。ネッカチーフを頭に巻き、開襟シャツにもんぺのようなズボンとスリッパを履くのがぺさんのいつものスタイルだった=1988年前後、本島中部(金洙燮さん撮影、金賢玉さん提供)