出発点は「患者だけががんばらんといけんの?」 ケア星人・仲地宗幸さんは「地域耕し人」 藤井誠二の沖縄ひと物語(32)


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 「ぼくはケア星人ですから!」

 そう仲地宗幸さんは何度か、自分に言い聞かせるように笑顔でそう言った。東京のある出版社で、気鋭の臨床心理士(セラピスト)・東畑開人さんと仲地さんによるオンライントークのスタジオの片隅に私は特別に座らせてもらい聴かせてもらった。心理の臨床家と作業療法士がどのような対話を繰り広げるのか興味があった(仲地さんは主に精神科デイケアで働いていた)。

キンコンカフェで「めんどくさいはおもしろい」のTシャツ姿でほほ笑む仲地宗幸さん=那覇市首里真和志町のcommons cafe KING KONG(ジャン松元撮影)

 同じフィールドで働いている二人の対話は和気あいあいと進行していった。聴いているのはこの分野に関わる職業の人や患者を家族に持つ人たちで、すこぶる好評だった。先の仲地さんの言葉は「覚悟」を強く示していると私は思った。

 「東畑さんはたくさんの患者さんのセラピー(心理療法)をされてきた実績があるし、セラピーを望む患者さんもおられますから、だからセラピスト(心理士)は必要不可欠な役割だと思います」

 「ただ、患者さん本人が自分の課題に気づいて、乗り越えていくという心理療法的やり方が向いている患者さんもいると思うが、ぼくはちょっと方向性が違うんです。ぼくは、“なんで患者さんだけががんばらんといけないの? 社会や環境も寛容さを取り戻す努力をする必要があるんじゃないの?”という思いがいつもどこかにあるんです」と「ケア星人」は笑った。

転機はイタリア

 作業療法士として主に精神科の病棟やデイケアでリハビリ(精神科作業療法)を担ってきた。高知県で5年働き、沖縄に戻ってきて5年勤めた。作業療法士の作業は多岐にわたり、「患者さんが社会復帰に向けてリハビリをしていくために、彼らが生活力をコントロールする力を身につけてもらうためにいろんなケアをやってきた」。

 2011年にイタリアのトリエステをたずねたことが転機になった。イタリアは精神科病院を全廃しているが、トリエステがそれを牽引(けんいん)した。

 「精神科病床は、総合病院の中に15床以内なら設けてもいいというルールはあるのです。もちろん閉鎖病棟もない。対応してくれた、ベテランの精神科医師の女医さんは、行動制限や沈静のための注射や投薬はしたことがないと言うんです。びっくりしました」

 「ぼくが“暴れる人はいないのですか?”と質問したら、“いますが、暴れるしかなかったその人を理解しようとすること以外に私たちのする仕事は他に何があるんですか?”と逆に聞き返されました。日本に帰ってきてそのことを心がけ、患者さんの症状を見つけようとしないで、病的に見える行動に本人の思いを見いだそうとすると、お互い楽になる感覚をだんだん持てるようになったんです」

 医療のなかで、ぼくはくすぶっていたんですかね、と仲地さんは視線を空に上げた。

 「精神科医療に居れなくなった出来事がありました。当時私は、ストレスケア病棟で認知行動療法といって、考え方のクセを整えてそこからくるうつ的気分をコントロールしましょうというプログラムを実施していました。ある40代の女性患者さんが職場でパワハラにあい、家では夫の過度の飲酒があり、経済的にも苦しい状況の結果、うつ病で入院していました」

 「環境からくるストレスでうつ病になったのに、それなのにあなたの考え方をコントロールしましょう、とぼくはさらにその方本人に働きかけるわけです。まだ患者さん本人が頑張らないといけないのか、結局、治療法という名の下に患者さん本人に問題を還元していないか、患者さん本人が社会に合わせなければならない文化に嫌気がさし、ぼくには医療での関わりは合ってないと思いつめてしまい、専門職として患者さんと接することをやめようと思ったんです」

「医療」を卒業

朝の交通安全見守り活動のユニホーム姿で交差点に立つ仲地宗幸さん那覇市の首里城公園前(ジャン松元撮影)

 自分なりに「医療」を卒業した仲地さんは、障がい者を雇って、沖縄市泡瀬で「焼肉キングコング」という、その名の通り焼き肉店でさまざまな立場の人が共に働くプロジェクトを始めた。知人が代表を務めていた事もあり、イタリアで見た社会的協同組合をモデルに、共に働くことで相互理解を促進し、多様な価値観を認めることができる飲食店を目指すこととなった。

 「最初は、就労継続支援型A型事業という福祉事業のかたちにして助成金を受けながら運営していました。病院から社会に飛び出して、一緒に働いてお互いを理解し合えたらいいなという発想でした。しかし、福祉収入と飲食業収入のバランスが徐々に崩れてしまい、雇用して働いているはずの障がい者の方が“お客様性”を持っていくようになったんです」

 「そこでいったん福祉雇用をやめようということにしたんです。全員を一般雇用にして助成金や福祉収入は受け取らないようにしていったら、数年かけて支援する側と支援される側という関係ではなくて、いっしょにお客さんを向き、共に働く仲間に変わっていけたんです」

 しかし、薄利多売という経営モデルが好転せず、仲地さんにとっては大きな試みだったプロジェクトは数年で幕を下ろさざるを得なくなる。

 仲地さんは毎朝、地元の首里当蔵の交差点で黄色い旗を持って、小学生の登校を見守っている。そしてオープンして間もない地域の「ゆんたくカフェ」の店主も務めている。地域のあらゆるネットワークに顔を出し、人からは「そのうち選挙でも出るの?」と冷やかされる。

 「精神的不調がありながらも地域で生活している人は大勢います。そして時々、近所住民とトラブルになります。そういうとき、今までの私であれば、精神科病院への入院をして投薬を中心とした治療を受けてもらうという選択肢しか知りませんでした。しかし、最近は地域で関わる人がいるかいないかが、どんな治療より大切だと思っています。なのでいろんな地域活動が重要であると考えているんです」

縦や横の糸に

 彼に「肩書はどうしましょうか」と聞くと、首をひねり、迷った揚げ句つけたのが「地域耕し人」だ。人柄をよく表しているとぼくは思った。

 「私は作業療法士としての背景を持っていますが、一住民として地域に関わることで、様々な状態の人が生活を維持できる包摂力のある地域文化を作っていこうと思っています。それは精神科医療の補完にもなります。一住民として、地域の人を知ることから始まる。人と人の関係性を知ることが、地域で人を支える際には重要な要素になります」

 「そして自らが関係性の縦や横の糸になる。地域社会は幅広い価値観であふれており、話し合いもすぐには終わらない。それはとてもめんどくさいことの繰り返しですが、めんどくさいことを経て、相互理解が生まれると信じてます。めんどくさいはおもしろいんです」 

(藤井誠二、ノンフィクションライター)

なかち・むねゆき

 1980年、那覇市首里汀良町出身。現在は、主に精神障がい者の就職のトレーニングを担う福祉事業を運営している。自分の地域のPTA、スクールゾーン委員会、自治会、青年会、子ども育成会、高校の同窓生組織、まちづくり協議会に参加、社会福祉法人の評議委員、保育園の保護者会長等を引き受けている。夢は「寛容な地域社会作り」で、将来は、多国籍の精神障がい当事者が一緒に働くお店を経営すること。

 

 ふじい・せいじ 愛知県生まれ。ノンフィクションライター。愛知淑徳大学非常勤講師。主な著書に「体罰はなぜなくならないのか」(幻冬舎新書)、「『少年A』被害者の慟哭」など多数。最新刊に「沖縄アンダーグラウンド 売春街を生きた者たち」。