さび付いた建物に眠る半世紀前の物語 パイン収穫最盛期の今帰仁


この記事を書いた人 Avatar photo 田吹 遥子
現存するパイン工場の倉庫=7日、今帰仁村呉我山

 【今帰仁】今帰仁村の呉我山公民館前に看板のないさび付いた大きな鉄骨造りの建物がある。7月に100周年を記念して発刊された「呉我山字誌」によると、日本復帰前の1956年に創業したパイン缶詰製造工場の倉庫兼宿舎で、復帰前は県内各地だけでなく台湾からも女性が出稼ぎに来ていた。最盛期、工場には200人以上が在籍するなど、パインは北部地域の一大産業だった。当時、原料班長として勤務していた嘉陽宗丘さん(83)は「工場だけでなく傾斜地にたくさんのパイン畑もあり、とても活気があった」とその当時の活況ぶりを語った。

 字誌によると、復帰前の沖縄でパイン産業が発展した背景には、日本政府の沖縄産パインへの関税免除措置がある。1952年4月の「沖縄の生産に係る物品の免除に関する政令」で、沖縄産パイン缶詰の関税が免除された。保護政策によって、台湾産などの海外の缶詰と価格競争できるようになり、農家や工場が増えたという。

「復帰前はパイン工場のおかげでとてもにぎわっていた」と振り返る嘉陽宗丘さん=7日、今帰仁村呉我山

 呉我山の「今帰仁農産工場」は北部では2番目に創業され、地元住民の有力な就職先として人気を集めた。字誌によると、月の半分の給料が27ドルで、近くで働く教員らからうらやましがられたという。

 原料班の職員として勤務していた呉我山区長の新里幸信さん(73)は「当時のパイン工場は安定した職場、人気があった」と振り返る。その上で「不思議なもので景気がよくなると子どもたちの成績も上がった。畑作業など家の手伝いのため学校を休むようなことがなくなったからだと思う」と話した。

 盛況だった工場だが、輸入自由化の波に押されてパインの生産が衰退し、工場は合併を経て復帰の年の1972年11月に閉鎖された。

 ほとんどの農家がミカン栽培に切り替わった今も、嘉陽さんはシークヮーサーに加えパインの栽培を続けている。「月の半分は工場で働き、半分は自分の畑でパインを育てて工場に出荷していた。忙しくてにぎやかな時代だった」と懐かしそうに話した。
 (松堂秀樹)