甲子園の土踏ませてあげたい コロナで断念の宮崎商と東北学院へ 沖縄の元球児がエール


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(右から)又吉民人さん、糸数哲夫さん、浦崎唯昭さん、眞榮田雅永さん=9月、那覇市内

 【那覇】高校球児に甲子園の土を踏ませてあげたい―。本紙コラム「金口木舌」をきっかけに、甲子園で活躍したかつての高校球児たちが思いを一つにしている。1960年の第32回選抜高校野球大会に県勢として初出場した当時の那覇高校野球部員で、元副知事の浦崎唯昭さん(78)と、チームメイトだった眞榮田雅永さん(77)、糸数哲夫さん(79)。また63年に甲子園で県勢として初めて首里高校野球部が勝利を挙げた当時、投手として活躍し、現在は県野球連盟会長を務める又吉民人さん(75)の4人だ。

 きっかけは、本紙8月26日付のコラム。夏の甲子園出場が決まっていた宮崎商と東北学院(宮城)がチーム内に新型コロナウイルス感染者が出たことにより、出場がかなわなかったことを受けて書かれた一文だ。

 「涙をのんだ球児たちの夏を取り戻すことができないだろうか。交流試合でもいい。もう一度、甲子園の舞台に立たせてあげたい」―。浦崎さんは「この一文にとても共感した。自分が甲子園に行ったからこそ、子どもたちにあの場所を経験させてあげたかった」と語る。糸数さんも「甲子園に出場したことは人生の宝物。浦崎さんがこの一文に共感した意味はとてもよく分かる」と話す。

第32回選抜高校野球大会に出場した際の那覇高校の選手。右から5人目が糸数哲夫さん、同6人目が眞榮田雅永さん、同7人目が浦崎唯昭さん(眞榮田雅永さん提供)

 4人は日本復帰前の沖縄から、パスポートを使って本土へ渡り、甲子園出場を果たした。それぞれに甲子園出場をめぐる思い出は鮮明に残る。

 泊港から鹿児島へ丸一日かけて向かう船中は、多くの部員が船酔いに襲われた。夜行列車で鹿児島から兵庫に向かい、早朝3時ごに着くと、関西の各県人会が歓迎ののぼり旗を立ててくれていた。

 沖縄からはるばる本土へ渡ってきた高校球児たちを激励しようと「高校野球の父」と称され、戦後の高校野球の発展に奔走した、日本高野連元会長の故・佐伯達夫氏がお忍びで宿舎を訪れたこともあったという。

 「甲子園1勝目を挙げた後、『県勢が優勝する日は100年後か』と監督たちと話していた」(又吉さん)。「就職してからも『甲子園に出た人だ』と話し掛けられたりして、野球に助けられることがたくさんあった」(眞榮田さん)と話は尽きない。

 浦崎さんは「もう新チームが始動していて、宮崎商と東北学院の3年生が甲子園の土を踏むことがかなわないのは分かる。だがこうして応援している人がいるということを伝えたい」と語った。
 (嶋岡すみれ)