メイクマンはピンチをきっかけに創業 新店舗計画も 退任する湧川善充会長に聞いた歴史と展望


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メイクマン浦添本店(資料写真)

 ホームセンターのメイクマン(浦添市)の会長を務めた湧川善充氏(78)が、任期満了に伴い16日で退任した。創業当初から事業の歩みを見続けてきた湧川氏にこれまでを振り返ってもらい、今後の展開などについて聞いた。

 ―メイクマンの始まりは。

 「元々は名護鉄工所という企業だった。1975年の沖縄国際海洋博覧会に合わせ、県外企業の進出や地元の事業拡大などの競争激化で赤字から抜け出せなかった。当時の社長が新規事業として同年に小売り部門でDIYセンターメイクマン浦添店を創業させた。76年10月に名護鉄工所から独立し、2カ月後に開店した2号店となる具志川店の店長に私が任命された」

メイクマンの会長を退任した湧川善充氏=15日、浦添市城間のメイクマン本社

 ―具志川店の拡大に取り組んだ。

 「米国のホームセンターに習って、駐車場にグリーンコーナーをつくった。中部は園芸が盛んで客足が増え、知名度も上がっていった。店を増築しながら品ぞろえを充実させ、現在の具志川店は当初より6倍の広さになっている」

 ―経営危機は。

 「85年に中華風海鮮料理を提供するレストラン兼宴会場の海覇王(ハイパーワン)を始めた時は、年間2億円の赤字を出していた。材料の仕入れ値が高い割に、売値をそこまで上げられなかった」

 「その時期に新たに取り組んだのが、87年に開店した大型ディスカウントストアの『ニューマン』だ。商品を安価で提供し、他社と差別化した。沖縄市泡瀬にダイエーのディスカウントストアができた時には売り上げがダウンしたが、増床して業務用資材や住宅設備も導入し、パワーセンターへと業態変更をしていった。ピンチは新しい物を生み出すチャンスになる」

 ―外国からの直輸入にも取り組んだ。

 「物流コストの高さは沖縄経済の課題だ。20年以上前に海外メーカーに視察に行き、資材の安さに驚いた。県内で安く商品を売るには直輸入が必要だと思った。5割は中国から、残りの5割は東南アジアや欧米などから直輸入することで、コストを抑えている」

 ―コロナ禍の経営は。

 「全国のホームセンターは対前年を割る状況下だが、巣ごもり需要でメイクマンの売り上げはプラスとなった。品ぞろえの良さが評価されている。住宅設備やリフォーム資材、小規模の農業用資材も充実している。衣料や食品販売も拡充している。将来的には食品部門も作れると思う」

 ―今後のメイクマンの展開は。

 「店舗の大型化を目指す。一日橋店や美浜店は移転し、1万平方メートル規模の店舗に改める。名護市屋部にも約2万平方メートルの土地を購入し、もう1店舗つくる計画だ。今後に期待している」
 (聞き手・中村優希)