沖縄戦31年前に…日本軍が酷似の「想定演習」 首里拠点に迎撃、生徒も動員


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軍事演習を伝える1914年1月の琉球新報記事

 自衛隊は19~30日に、県内と全国の周辺海空域で県内の民間港も使用した大規模演習を実施する。沖縄戦研究者の石原昌家沖縄国際大名誉教授は、沖縄戦から31年前の1914年、沖縄戦に酷似した想定で日本軍が軍事演習を実施していたと指摘。世界が第1次世界大戦に向かった当時の流れを、米中対立が深刻さを増す中で各国が演習を活発化する今の流れに重ねる。「リハーサルという楽観的な気持ちがあるかもしれないが、演習の後には本番がある。軍事的緊張がエスカレートすれば、基地が置かれている沖縄が巻き込まれかねない。過去の歴史を現在の教訓にしてほしい」と警鐘を鳴らす。

 1914年1月20日と22日、23日付の琉球新報に当時の軍事演習の様子が詳しく報じられている。その頃の沖縄には日本軍が駐屯しておらず、熊本の第6師団が演習のため来ていた。

 演習は「侵入軍」が本島中部に上陸し、一部は北部へ、主力部隊は南部へ進軍する想定で行われた。日本軍は首里に本拠地を置き、敵の進軍を食い止めるため、宜野湾や浦添で迎え撃った様子が同22日付と23日付で伝えられている。後の沖縄戦で「鉄血勤皇隊」と呼ばれ、動員された中学校の生徒らが加わったことも記されている。

石原 昌家氏

 この演習は第1次世界大戦(1914年7月~18年11月)の直前に実施された。日本は欧米列強へ並ぼうと、連合国側として第1次世界大戦に参戦。中国のドイツ領を接収し勢力拡大を図った。その後、国際連盟を脱退し日中戦争、太平洋戦争に突き進んだ。

 演習から31年後の1945年、日本軍は首里城地下に拠点の地下壕を築き、沖縄戦は演習とほぼ同じ状況で展開された。日米両軍の激しい戦闘で12万2千人あまりの住民を含む約20万人が亡くなった。石原氏は「明治維新後、戦争に明け暮れた帝国日本国家の帰結点となったのが沖縄戦だった」と指摘する。

 現在、自衛隊は28年ぶりに全国で過去最大規模の統合演習を行っている。石原氏は「沖縄戦を体験した沖縄が大切にしているのは、戦争を拒絶する、非軍事の平和だ」と力を込める。軍事的緊張を緩和する必要性を語り「自衛隊は、日中の緊張を高める軍事演習ではなく、住民の生活・生命を脅かしている、港や海岸に押し寄せている軽石を除去することに専念し、災害救援に全力をあげる時だ」と強調した。(中村万里子)