八重岳や本部港の沖縄戦とは…暴力や飢え、横たわる朝鮮人 30人が戦跡めぐる


社会
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戦時中と現在の八重岳・真部山周辺を比べながら、説明する友利哲夫さん(左端)=10月10日、本部町(提供)

 【本部】沖縄市平和ガイドネットワークは10月10日、講師に元本部町立博物館長の友利哲夫さん(88)を招き、本部町の戦争遺跡をめぐるフィールドワークを実施した。友利さんは、日本軍の武器が島内に運ばれる様子や日本兵による朝鮮軍婦への暴行などを目撃した当時を振り返りながら、戦争の悲惨さを訴えた。

 約30人が参加し、本部監視哨跡や日本軍の宇土部隊が陣地を構えた八重岳・真部山周辺、朝鮮人の強制労働現場となった本部港付近を回った。

 「軍夫」として連れてこられた朝鮮人が疲労や飢えで道に横たわっている姿を多く見たという友利さん。日本兵に軍靴で蹴飛ばされて泣いている人や物乞いをしている人もいた。「とてもかわいそうで、軍からは物を与えてはいけないと言われたが、みんなこっそりと食べ物を分け与えていた」と語った。

 また、当時は地上戦に備え、波止場から次々と日本の武器が運び込まれていた。たまたま見張りの兵がいない時に近づくと、明治23年製の物で、「この時代に明治の武器を使うなんて、日本は負けるな」と子どもながらに感じていたと振り返った。友利さんはその後、米軍が本島に上陸する前に、父が教師として勤めていた台湾に疎開したという。

 沖縄市平和ガイドネットワーク代表世話人の森根昇さん(80)は「断片的記憶の人が多い中で、詳細まで覚えている人は少ない。大変貴重で勉強になった」と語った。