激戦地に眠る無数の「こうちゃん」…それでも新基地に埋めるのか<おきなわ巡考記>


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 名護市辺野古の新基地建設に絡んで「南部の土」が論議される度、戦争孤児の「こうちゃん」を思う。「幸ちゃん」とも「孝ちゃん」ともいい、年齢も5歳、あるいは4歳とも。その短い生涯は、ひめゆり学徒隊の行動に触れた記録の中で、ほんの瞬間、姿を見せる。

 戦後に生き残った学徒隊の生徒から手記を集め、引率教師だった仲宗根政善さんがまとめた「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」(以下、原文のまま)。

 「(1945年6月18日の晩)やっと西の壕についたら、棚原看護婦を前に、上原婦長と国吉看護婦がじっとすわっていた。そのそばに、五つになる幸ちゃんという男の子が、正気を失って寝入っていた」

 「この孤児は、南風原から吉原という八重山出身の看護婦がつれて来たのであったが、吉原看護婦は、幸ちゃんを壕の入口からわずか離れた草むらにつれだして、用便をさせていたとき、敵弾にやられて最期をとげたのであった。それからは親身になってせわをする人もなく、とうとうこうしておき去りにされたのであった」

 「こうちゃん」は、そのまま息を引き取ったのか、壕からはい出して力尽きたのか。米軍が保護したという記録はなく、最期をみとった人もいない。

 58年6月23日の仲宗根さんの日記「ひめゆりと生きて」(以下、原文のまま。送り仮名の一部は修正した)。

 「孝ちゃん、孝ちゃんは可愛いよい子でした。我々は今日、貴方の御霊をここひめゆりの塔にひめゆりのお姉さん方と一緒にお祭り致します」

 「13年後の今に至るまで孝ちゃんの音沙汰はありません。孝ちゃんの御霊はきっとここ摩文仁野に迷っていることと思います。今日ここに孝ちゃんの御霊をひめゆりの塔にお祭り致します。何卒この薄幸の児を皆で温かく抱きとって下さい」

 その後のひめゆり平和祈念資料館などの調べでは、「こうちゃん」の父親は沖縄―本土間の定期航路に就航していた「嘉義丸」(2344トン)の船員で、沖縄戦の2年前、43年5月26日、鹿児島から寄港地の奄美大島・名瀬港に向け航行中に米潜水艦の魚雷攻撃で沈没。321人が死没した。宮古か八重山出身の母親は沖縄戦の最中、繁多川で戦没した。「吉川看護婦」は正規の看護師ではなく、看護師、学徒隊、衛生兵ら看護・医療グループと行動を共にし、「こうちゃん」の母親の知人だったため戦場で世話をしていたという。

 幼い命は、こうして「南部の土」になった。沖縄戦では、戦後に生き延びた戦争孤児が何人であったのか、調査がなされず、分からないまま時間が過ぎた。ましてや、戦場で亡くなった孤児の実態は判明していない。いったい、何人の「こうちゃん」がいたのか。

 76年の時を経て、新基地建設に沖縄本島南部の土砂を使う計画を問題視する動きが加速してきた。土砂に混じる住民、兵士の遺骨、骨片。血肉もしみ込んでいる。それを新基地建設のために海中深く埋めていいのか。

 玉城デニー知事もこの心に応えた。沖縄防衛局が提出した新基地建設に伴う軟弱地盤改良工事の設計変更申請を「不承認」とした際のコメントで明確に「十分な説明を行わないまま一方的に、強権的に埋め立て工事を強行する姿勢に、不安、憤り、悲しみを感じている県民、国民が数多くいる」と言い切った。

 「こうちゃん」の物語は、過ぎ去った日の挿話ではない。常に「僕をさがして」と言い続ける霊。その無言の声を聴くのか。それでもあえて封じてしまうのか。人間の尊厳に頭を垂れ、歴史の前に真摯(しんし)であるかどうか。「いま」が厳しく問われる。

 (藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)