炎上米軍機が集落へ、キノコ雲「戦争だ」…沖縄の川崎墜落事故60年で初証言「語れなくても忘れない」


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米軍機が墜落した60年前の様子を語る喜納きょう子さん(左)と宮城セツ子さん=6日、うるま市川崎

 【うるま】真っ赤な炎と黒い煙に包まれた米軍機が学校に向かって飛んできた。その様子を教室から見ていた喜納きょう子さん(74)=当時具志川村・川崎中3年=は恐怖で足がすくんだ。目の前で旋回した機体は集落内に墜落した。2人の死者と6人の負傷者を出した1961年12月7日の川崎米軍機墜落事故。60年が経過した今もその時のことを鮮明に覚えている。「多くの人は語らないけど、忘れてないよ」。今も頭上を飛び交う米軍機が記憶を呼び覚ますからだ。6日、本紙に初めて当時の様子を証言した。

 ドーンという音とともに視界いっぱいに大きなキノコ雲が広がった。熱風も襲った。「戦争だー」。だれかがそう叫び、教室はパニックに陥った。

 校内に残っていた生徒たちは中庭に集められ、教員から犠牲者が出ていることなど説明を受けた。隣接する川崎小学校はちょうど下校時間。小学1年だった親戚の金城善孝さん(当時7歳)が熱風で大やけどを負ったと聞き、同年代の妹や弟の安否が気になった。1~2時間後、事故現場から約200メートル離れた自宅に帰ると、妹は家の片隅でがたがたと震えていた。

 集落内では遺族への配慮もあり、事故のことを語る人はいなかった。喜納さんの同級生で、同じく墜落を目撃した宮城セツ子さん(75)は「遺族ら当事者が話さないのに、ほかの人が話すわけにはいかなかっただろう」と語る。賠償問題もあり、米軍側から公言しないよう求める規制もあったと後に聞いた。「風化させたくないという思いはみんなにあったが、なかなか難しかった」と喜納さん。

 ことし、川崎小学校の児童らが事故の「継承者」として語り継いでいく取り組みを始めた。「継いでほしいという大人の押し付けではなく、子どもたちが自ら学びたいと思ってくれたことに感謝したい」と宮城さんは話す。子どもたちが素朴な疑問を抱き、それに答えることが事故を風化させないことにつながると感じている。

 事故から60年たつが、2人にとっては「つい最近のことのよう」だという。川崎集落の上は米軍機が変わらず飛び交い、昨年あたりからは低空飛行も目立つ。「墜落の恐怖が消えることはずっとないだろうな」。2人は口をそろえた。

(新垣若菜)