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法制審と表現の自由 侮辱罪強化の危うさ 枝葉議論で全体崩壊も<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
刑法改正で、侮辱罪の厳罰化についての法制審議会答申について報じる10月22日付琉球新報

 法務省に法制審議会という組織がある。戦後間もない1949年に法務府設置法に基づきできたもので、法務大臣の諮問に応じて刑事法・民事法はじめ法務に関する基本的な事項を調査審議するとされる(法務省組織令60条1項1号)。いわば、国の基本法を実質的に決める重要な政府組織だ。この会の下にはアドホック(特定の目的のため)に法改正のための検討を行う部会が置かれ、法務省ウェブサイト上では現在、11が存在する。

 そのなかに、刑事法(侮辱罪の法定刑関係)部会や民事訴訟法(IT化関係)部会、刑事法(犯罪被害者氏名等の情報保護関係)部会があり、いまこれらの検討方針やそれに基づく法制審の答申が、表現の自由を大きく制約しかねない内容を含むものとなっている。しかしながら、議論は低調でこのまま立法化が進む様相を見せていることもあり、改めてここで課題を確認しておきたい。

萎縮への懸念

 刑法改正による侮辱罪の厳罰化について、審議経過を追ってみる。9月22日の第1回部会に改正案が具体的に示されている。刑法231条(侮辱罪)を「法定刑を1年以下の懲役若しくは禁錮若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料とすること」と、禁錮・懲役・罰金を新設しようとするものだ。わずか2週間後の10月6日開催の第2回会議において、反対1賛成8で提案はそのまま最終決定され、10月21日開催の法制審総会でも原案通り採択、直ちに大臣に答申された。

 トータルで実質2時間ほどの会議では、「インターネット上の誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)が特に社会問題化していることを契機に、誹謗中傷全般に対する非難が高まるとともに、こうした誹謗中傷を抑止すべきとの国民の意識も高まっていることに鑑みると、公然と人を侮辱する侮辱罪について、厳正に対処すべき犯罪であるという法的評価を示し、これを抑止することが必要である」という冒頭の諮問理由が、そのまま承認されたかたちだ。

 この結果、現行の名誉毀損(めいよきそん)より少し軽いものが侮辱となり(懲役の長期が3年か1年か、罰金の多額が50万円か30万円かの違い)、その差は実質的にほとんどなくなったといってよい。そこでは、9月の総会で示された疑問や懸念が十分に払拭(ふっしょく)されたとは言えないのではなかろうか。具体的には、侮辱罪の判断基準の曖昧さと、免責要件がないなどによる表現の自由への萎縮効果への懸念、についてである。

 議論では、たとえ侮辱的言論であっても公正論評であれば刑法35条の「正当な業務による行為」で違法性阻却を導けるので問題ないとする。しかしそれは、侮辱罪の免責の説明としてはあまりに牧歌的だし、実態にもあっていない。たとえば、本欄でも紹介したように取材目的の建造物侵入の行為についても、外形的な違法行為ということが強調され、逮捕・拘束され捜査が半年近くも続いているのが実情だ。まさにこれこそが報道機関への萎縮行為に他ならない。

低位の言論

 部会委員からは「侮辱はそもそも価値のある言説ではないから、違法性阻却を考える必要がない」との理解が示され大勢を占めていた。それゆえに侮辱罪に名誉毀損同様の公共性がある場合の特例(刑法230条の2の免責要件)を認めることは否定的で、一般市民の政治家への批判が、悪口では済まず「侮辱」と認定される余地があることを示している。こうした理解は、これまでの免責要件を新設し、判例でその解釈を拡大することで、批判の自由を拡大させてきた表現の自由の歴史に、真っ向から反することになる。

 さらに会議ではもっぱら、抑制的な量刑の引き上げで萎縮効果は生まれないし、ネット上の表現行為にはより強い抑止効果が必要という意見ばかりが続くが、その前提には現実社会に萎縮は起きていないという認識があるようだ。しかし、近年続いている様々な集会や催し物における作品の撤去、デモや集会の中止といった、忖度(そんたく)による表現の自由の可動域の縮減は、萎縮そのものではないのだろうか。

 そもそも名誉毀損等について国連は、締約国が非犯罪化を検討すべきで、刑法の適用は最も重大な事件のみに認められるべきであって、拘禁刑は適切ではないとしている(国連・自由権規約委員会2011年採択「一般勧告34」47項)。日本でもこれまでは、表現行為を刑事事件としては裁かず、民事的救済(金銭的賠償)にとどめるという運用が大切にされてきたが、そうした公権力の謙抑性にも逆行するだろう。

 日本では、政治家や大企業からの記者・報道機関に対する「威嚇」を目的とした訴訟提起も少なくない。いわば、政治家が目の前で土下座させることを求めるかのような恫喝(どうかつ)訴訟が起きやすい体質がある国ということだ。そうしたところで、より刑事事件化しやすい、あるいは重罰化される状況が生まれれば、間違いなく訴訟ハードルを下げる効果を生むだろう。それは結果的に、大きな言論への脅威となる。

 目の前のネット被害者を救うことは「正義」ではあるし、必要なことだ。しかし刑事罰は、最悪を考えて設計すべきだし、とりわけ表現活動に関してはいったん失った自由をとり戻すことは事実上不可能だ。にもかかわらず、審議会全体として認めているように、違法性阻却や責任阻却の考え方は不十分だけども、政治家に対する批判的言論ではなく個人に対するインターネット上の誹謗中傷が対象の法改正だから問題ない、という理屈だけが独り歩きしている。しかも、目の前で起きている「不自由さ」はどんどん進行していることにも、意図的に目を瞑(つむ)っている。

森を見ること

 別の部会で審議された手続法の改正でも、よい面ばかりがアピールされ、それによって生じる事態への目配りは決定的に欠けている。訴訟手続きのIT化や被害者保護のための例外的な匿名化は、確かに必要な面はある。しかしそのために、ただでさえ低い司法分野の情報公開度をさらに押し下げることには大きな問題がある。

 今回の改正案では、犯罪被害者保護のために、逮捕状や起訴状はじめ判決書についても、被害者を特定できるような個人情報は目隠しにして、被告及び弁護士にも伏せるという方法をとることになる。その結果、報道機関は取材の糸口を捉えることができなくなるほか、市民社会として冤罪(えんざい)の可能性の検証可能性を閉じてしまうことになる。ここでも、被害者保護が優先される結果、表現の自由に対する配慮は見られない。

 法制審は大所高所から日本の法体系を考える場であったにもかかわらず、枝葉の議論になることで、法体系全体が崩れることを強く危惧(きぐ)する。同時に、これらの法制審の答申を後押ししているのがマスメディアであるように思われる。実際に会議でも、国民の声があるという例示として、各種の紙面が紹介されている。被害者保護や誹謗中傷の抑止というキャンペーンはしやすいし読者の反対もないだろう。しかし同時に大きな役割は、負の側面をきちんと指摘することではないか。そうした機能が弱くなっているジャーナリズムにも強い危機感を覚える。

 (専修大学教授・言論法)
 (第2土曜掲載)
 


 本連載の過去記事は『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。