戦争や抑留所へ連行も…県系ペルー2世の95歳が自分史を発刊 「いつか故郷の土を自分の足で」


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自分史を発刊した神谷照子さん(前列中央)と、編集に協力した長女の康子さん(前列左)と長男の嘉辰さん(同右)ら=11月23日、那覇市内の神谷さん宅

 県系2世として18歳までペルーで育った神谷照子さん(95)=那覇市=がこのほど、自分史「ペルー帰りのテレサの物語」を発刊した。テレサは照子さんのクリスチャンネーム。太平洋戦争に巻き込まれ、米国テキサス州の抑留所で過ごした時期もあった。戦後、沖縄に移り住み米統治下や本土復帰を体験。日米関係や戦争に翻弄(ほんろう)されながらもたくましく生きた歩みがつづられている。

 自分史は照子さんが友人たちとつくる「Kosmos会」のメンバーが、ペルーや抑留所での体験を形にしたいと聞き書きや資料を集めて実現した。教材に活用できるよう英訳も付けた。照子さんは自分史を手に「I’m very happy(とっても幸せ)」とちゃめっ気たっぷりに話した。

 照子さんの両親・島袋多郎さんとウシさんは旧羽地村(現名護市)出身。1918年にペルーに移住した。サン・ニコラス耕地で農業に従事。その後、リマに移り住み雑貨店を営んだ。

 照子さんは兄2人と姉との4人きょうだい。長兄は開戦前、進学で沖縄に移住した。程なく召集されたため、長兄に会いたいと母のウシさんも沖縄に帰郷した。

 41年の真珠湾攻撃を契機にペルーの日系人は敵性国民として米国の強制収容所への移送対象となり、父の多郎さんと次兄の幸昇さんも43年に米国テキサス州クリスタルシティーの抑留所へ連行された。家族が引き裂かれ照子さんだけペルーにとり残された。「本当に大変でもう一生家族に会えないかと思った」と振り返る。

 強制連行から1年が過ぎ、照子さんは米国行きを申し出て抑留所へたどり着き2人に合流した。45年に太平洋戦争が終結。次兄は米国にとどまり、照子さんは父と日本に戻った。本土滞在をへて沖縄に帰ったのは48年。中城湾の久場崎港で母と再会した。

 その後、神谷嘉盛さんと結婚し1男2女に恵まれた。戦後は縫製や仕立て直しで家計を支えスペイン語と英語を生かして沖縄ペルー協会でも活躍した。

 自分史は長女康子さん(71)と長男嘉辰さん(69)が挿絵と資料提供を担った。「Kosmos会」の大城朋子さんは「情深いテレサさんの周りには人が集まる」と尊敬の念を込める。照子さんの口癖は「戦争は大変だった」。にもかかわらずペルーに郷愁を抱く。「いつか必ず故郷ペルーの土を、自分の足で踏みたい」と願っている。自分史の問い合わせは康子さん(電話)080(1795)5813。
 (高江洲洋子、写真も)