「見えない」戦跡で聴こえるマブイの声 列車爆発事故の現場で<おきなわ巡考記>


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 「沖縄戦を知るピースウオーキング実行委員会」のチラシに「見て、聞いて、感じて…マブイ(魂)の声を聴く」とあった。今月行われた34回目のウオーキングは、今は「見えない」列車爆発事故の現場を歩く企画だった。見えなくても、感じることはできる。チラシの文言は、そんな気持ちを込め、結成11年で初めて書き込まれた。

 列車爆発事故の舞台は、沖縄県鉄道(軽便鉄道)の糸満線。1944年12月11日午後、嘉手納駅を出発した列車が南風原町を抜け大里村(現・南城市)の稲嶺駅に向けて走行中に爆発し、沿線に野積みされていた爆薬も次々に誘爆。乗車していた兵士約210人、女学生(途中の駅で便乗)8人、鉄道職員3人が死亡。貨車6両分の弾薬、貨車1両分のガソリン、貨車1両分の医薬品と、近くの畑に積まれていた弾薬数百トンが吹き飛び、焼失した。

 生き残ったのは女学生2人と鉄道職員1人にすぎない。軍は箝口(かんこう)令を敷いた。事故の概要が明らかになったのは、戦後になってからである。

 ウオーキングはその日に合わせ、爆発現場付近を巡った。今、現場の風景は一変し、案内板もない。出発前、50人近い参加者を前に会長の垣花豊順さん(88)があいさつした。

 「これから向かう現場は、当時をしのぶものは何もありません。今日、何もない現場で体験するのは、亡くなった人々の無言の声、封印された記憶をマブイで聴き取ることです。記憶を受け止める私たちの感受性が大事なのです」

 南風原町史戦争編ダイジェスト版「南風原が語る沖縄戦」の「II戦時下の南風風 8、列車爆発」によると、爆発現場西側に近接する南風原町神里には、爆発直後、空から弾丸の破片が雨あられのごとく降ってきた。民家2軒が燃え、風圧で1軒が崩壊した。奇跡的に住民の人的被害はなかった。

 ウオーキングを案内した大城吉永さん(85)は当時、神里に住んでいた。学校から帰って、友達とガジュマルの木に登って遊んでいた。大音響で怖くなり、家族と壕に向かった。壕は既に集落の住民でいっぱいで、やむなく外で横になって夜も過ごした。大人たちは「戦争だ」とささやき合った。

 翌日、ガジュマルに、列車から吹き飛ばされた医療用の包帯やガーゼが大量にぶら下がっていた。人間の肉片も見えた。大城さんが指さす、そのガジュマルだけが76年の時間を超えて事故の記憶につながる。

 事故の背景に沖縄戦を前にした日本軍(第32軍)の切迫した事情があった。当時、軍の有力師団が台湾に移動した。これに伴って配置換えを急ぎ、鉄道を実質的に軍用として運用、兵士や軍需物資を輸送していた。

 そこに起きた大惨事。部隊の移動と事故そのものを秘密にした軍も、さすがに「国軍創設以来初めての不祥事で、敵兵を殺傷することなく消耗した」(長勇参謀長の訓示)と深刻に受け止めた。屋根のない無蓋(むがい)車両にガソリン入りのドラム缶を積んでいたことが引火、爆発の要因と見て「軍規の弛緩(しかん)」も厳しく指摘した。

 こうした事故の総括から、軍は何を教訓として得たのか。あるいは、沖縄戦への影響はどうであったのか。その経緯と事情を私たちは、どのように読み解くか。事故は沖縄戦に備えた作戦中に起きた。その意味で、現場は沖縄戦とつながる戦跡に他ならない。

 戦跡は記憶の集積地である。たとえそのままの形で現存していなくても、証言者が減り続けても、心の耳をすませて資料を・史料を読みこなし、記憶をつないで史実に迫る。ウオーキングの実行委員会は来年以後の取り組みでも、チラシに同じ文言を書き添えて戦跡に向き合い、マブイの声を聴き続ける。

 (藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)