末吉陵で十数年ぶりの御願 尚久王を元祖とする門中会が実現


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末吉陵で御願をする野村朝生事務局長(前列左)と金武家の金武朝秀当主(前列右)ら=25日、那覇市

 第二尚氏王統第5代尚元王の三男・尚久王を元祖とする、琉球王族の系統の門中会「向氏仁淵堂(しょうしじんえんどう)金武御殿門中会(ちんうどぅんむんちゅうかい)」が25日、「末吉陵」で十数年ぶりの御願(うがん)をした。末吉陵には尚久王の四男にあたる第8代尚豊王(1590~1640年)の次男、尚文(1614~73年)が眠る。長男が先に亡くなり、尚文は王位継承権の権利を持ったこともあったとされる。門中会の野村朝生事務局長は「ずっと心に引っかかっていたので、御願ができてホッとしている。次は御清明(うしーみー)で、手を合わせたい」と胸をなで下ろした。

 末吉陵は、那覇市の末吉公園北東の山中に位置する。かつて、一帯を王府が管理し、首里城に用いるチャーギを植えていたため「チャーギヌ玉陵」とも呼ばれる。尚文は、左手が壊疽(えそ)を起こしていたことなどから、ハンセン病だったといういわれがある。一方で、門中会には、薩摩に反抗的な態度を取り続けていた尚文は「薩摩に毒殺された」と伝わっている。

 家筋から金武御殿が御清明や御願を務めていたが、2008年ごろに門中神人(ムンチュウカミンチュ)が亡くなり、末吉陵の敷地の一部が売却されて陵に至る道がつぶれたことなどが重なり、行事が中断されていた。その間、草木が生い茂り、外からは同陵はもとより、墓前に至る道も見えない状態になっていた。

 門中会がことしに入り、末吉陵での祭祀(さいし)を途絶えさせないため、御願から復活させようとしたところ、文化継承の取り組みに賛同した新垣則彦さん(66)、亀谷貴昭さん(27)、城間瑛生さん(25)が手伝いに加わった。

 一行は御願当日、野村事務局長と金武家の金武朝秀当主の先導の下、やぶを切り開き、倒木を道端に寄せ、墓地として売却された土地から末吉陵に通じる新たな道を整備した。御願では、御香(ウコウ)の灰が左右に見事に開いた。

 門中会は今後、那覇市への陳情など、末吉陵の文化財指定に向けて動くことを検討している。

 (藤村謙吾、写真も)