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コンビニ、デパート…「沖縄流」で次々改革 「世界軸」が発想の源 リウボウホールディングス会長 糸数剛一さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「樂園百貨店」を見て回る糸数剛一さん=2021年11月18日、那覇市久茂地のデパートリウボウ(喜瀬守昭撮影)

▼(1)東京で過ごした青春時代…「沖縄らしさ」長所にビジネス展開 から続く

 

 1959年5月、那覇市安里で生まれた糸数剛一(62)は、やんちゃな子どもで泊小学校では先生にしばしば怒られていた。勉強はあまりしなかったが成績は良かったという。ところが、小学校6年生の3学期に東京に転校すると、環境が全く違った。「当時の沖縄は、学校で教科書の範囲が終わらないのが当たり前の時代だった。けれど、転校したら既に教科書を教え終わってテストばかりしていた」と話す。

 米統治下にあった沖縄のことは詳しく知られておらず、外国人のような扱いも受けた。転校した小学校では登校前日に教師から「日本語は大丈夫ですか」と真顔で確認された。音楽の授業でリコーダーを吹けば「どこで習ったんだ」と驚く教師もいた。「先生の中には、沖縄は戦争で荒廃し、米国の統治もあって教育が遅れていると思い込んでいる人もいた。悪い人ではなく、純粋に知らないから間違った情報を信じ込んでいた」という。

 ただ、子どもたちは純粋な好奇心を向けてきた。転校初日は学校中の子どもが糸数に会いに教室を訪れた。「調子に乗って、大スターみたいにサインしたよ」。持ち前の明るさで、激変した環境に適応した。

 進学した文京区立第一中学校では勉学に打ち込んだ。周囲に負けまいと毎日のように勉強を続け、定期テストで掲示される席次もみるみるうちに上がった。

 1年生の5月15日、沖縄が復帰した日は、教師が「糸数君の故郷の沖縄が日本に復帰した」と拍手をしたこと以外はほとんど覚えていない。「めまぐるしく流れていく日々に適応することに全力だった。それだけ充実していたということかもしれない」と懐かしむ。

 

青春時代

母・光子さん(右)と妹・千尋さん(中央)と共に外出先で写真に写る6、7歳ごろの糸数剛一さん(左)。やんちゃな性格だったという

 制服がなく自由な校風で知られる都立北園高校に進学すると、一転して読書や映画に時間を費やした。入学式で校長が「受験勉強なんかするな。もったいない」と話したことが強烈な印象として残っている。片っ端から本を読み、名画座に通い詰めた。

 新聞記者を志し、多くの有名記者を輩出していた早稲田大の政経学部に進んだ。しかし学園祭などで訪れたOBのジャーナリストたちの話を聞いて違和感を覚える。話自体は面白いが、政治や社会を批判するばかりだったからだ。「批判するだけなら簡単。自分は何かを変える側になりたい」と考えるようになった。

 夏休みの度に里帰りしていたが、リゾート地という感覚が強く、沖縄で働くイメージは持っていなかった。大学卒業後も、そのまま東京で就職するつもりだったが、父・剛延から一度戻るように言われ、「親の言うことを全然聞いてこなかったから、数年くらいなら沖縄で働くのもいいか」とごく軽い気持ちで帰郷を決めた。

 給料の高い会社が良かろうと銀行に就職したが、沖縄経済が成長する時期だったことから、3年間仕事に追われた。配属された支店で、残業に追われながらハードワークをこなす日々を送った。

 支店で貿易業者の信用状(LC)の発行手続きをする中で、自分で貿易をやりたいという気持ちが大きくなり、銀行を3年で退職した。子どもの頃から自分を知る人が一人もいない海外で暮らしたいという憧れを抱き、大学時代には本気でブラジル行きを検討するなど海外への強い関心があった。

 興味のあったタイ・チェンマイへ向かって出国。1週間だけバケーションしようと立ち寄ったフィリピンで、幼少期に過ごした沖縄と似たエネルギーにあふれた街に魅了された。日本で働いて稼ぎ、マニラと往復する日々を2年ほど続けた。

 

“沖縄流”で発展

 大きな転機となったのは1988年。少年時代にボーイスカウト活動を通じて面識のあった現リウボウホールディングス代表の比嘉正輝から誘われ、前年設立したばかりの沖縄ファミリーマートに入社した。コンビニエンスストアが巨大な産業になると予感した糸数は「2、3年で営業や商品開発のノウハウを学んで、タイに行ってもうけて楽しく暮らそう」と新たな世界に飛び込んだ。結果として次々と新しいことに挑戦する部分が性に合い、気が付けば仕事に熱中していた。

 コンビニになじみの薄かった当時、消費者から怒られることも多かった。地域の商店の品ぞろえに慣れていた客からは「刺身くらい置け」と言われ、酒販免許のない店では「なぜ酒がないのか」と問い詰められた。電子レンジで温めることが一般的に浸透する前で、弁当やおにぎりが冷たいというクレームも多かった。

 それでも出店をやめず、県内で50店舗を超えるころから認知度が上がり、70店舗を超えるころに黒字になった。上司から「好きにやれ」と言われた営業課長の糸数は、ゴーヤーチャンプルーなどの沖縄地区限定商品の開発や、県民に喜ばれることを意識したイベント展開で業績を伸ばしていった。「沖縄には、日本の他の地方とは違う文化がある。沖縄の人が作る物でないと、県民に自分たちのコンビニとして受け入れられない」と“沖縄流”を貫いた。

 

沖縄ファミリーマート時代に、ファミリーマートサミットに参加する糸数剛一さん(2列目左から3人目)=2005年、台湾

米国で感じた「懐かしさ」

 入社時に20程度だった店舗数は200店舗を超えていた。専務として沖縄ファミマを率いていた糸数に、ファミリーマート本社から白羽の矢が立つ。業績の低迷していた米ファミリーマートの立て直しを打診された。

 周囲からは、米ファミマがうまくいっていなかったことから「行かない方が良い」と言われたが、新しいことをやりたいという思いが勝った。2007年1月に副社長としてロサンゼルスに赴任し、同年12月には社長兼CEOに昇格した。

 初めて暮らしたアメリカで、懐かしさを感じた。復帰前に見ていたドルを使い、スーパーには幼少期に親しんだ食品が並べられている。街並みも幼い頃の本島中部のようだった。「むちゃくちゃ居心地が良くて、東京に行った時よりもスッと入れた」

 アメリカでまず意識したのは「一般アメリカ人のコンビニになる」こと。アメリカではそれぞれの出身国や起源の国ごとに商店が分けられ、例えばベトナム系の人は多くがベトナムの店に行く、といった様子だった。「商品が良くても、日本を前面に出していると自分の店と思ってもらえなかった」という。沖縄ファミマで、沖縄の人の店と感じてもらうためにローカライゼーションを進めたのと同様に、アメリカのポピュラーブランドの商品を多くして店のイメージを変えることに取り組んだ。

 実力主義が水に合ったのか、3年間のアメリカ生活は充実の一言だった。毎日夜遅くまで店舗開発にいそしみ、現地で採用したスタッフと話し込んだ。「楽しくてしょうがなかった。3年間、アドレナリンが出っぱなしだった」と笑みを浮かべる。
 

米ファミリーマートで、スタッフとともに笑顔を見せる糸数剛一さん(前列右から4人目)=2008年

マーケットは世界軸で

 3年でアメリカから帰国後、沖縄ファミリーマートの社長などを経て、13年にデパートリウボウを運営するリウボウインダストリー社長に就任し、次々と改革に着手する。沖縄のデパ地下を目指して地下食品売り場を改装、若者世代を意識して沖縄初進出のブランドや店舗を呼び込んだ。非日常の買い物をするワクワク感という、デパートとしての「原点」に回帰することを目指した。

 デパートリウボウは糸数が社長に就任した後の14年2月期に5期ぶりの黒字に転換した。増加したインバウンドの需要も捉え、新型コロナが拡大する前の19年2月期まで6期連続で黒字を続けた。

 糸数が経営戦略を語る時などに口にするのが「マーケットは世界軸」という言葉だ。県民や沖縄を訪れる国内観光客に買い物を楽しんでもらうだけでなく、世界の人を潜在的な顧客として捉え、沖縄や日本、世界の良い物を販売していくということだ。アメリカ勤務の経験を生かし、物だけでなく人材面でも世界に視線を向けている。いろいろな考え方の人が入ってくることで、多様化し価値観が磨かれて新たな発想が出てくると信じているからだ。

 復帰から50周年を迎えた沖縄の姿は、豊かになる一方で閉そく的になっているように映る。アジアと交流して築いた伝統的な文化に、米統治時代のアメリカ文化、さらに日本文化も受け入れてきた沖縄は、他の文化を受け入れる受容力の高さを生かすべきだと考えている。「どんどん他の文化を取り入れて、もっとチャンプルーしていく。一方でもうけるために自然をしっかり保護して価値を高める。こんなにポテンシャルの高い地域は、日本で唯一だと思う」と言葉に力を込めた。

 (文中敬称略)
 (沖田有吾)