東京で過ごした青春時代…「沖縄らしさ」長所にビジネス展開 リウボウホールディングス会長 糸数剛一さん(1)<復帰半世紀 私と沖縄>


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「沖縄は、他の文化を受け入れる受容力を高めていくべきだ」と語るリウボウホールディングス会長の糸数剛一さん=2021年11月18日、那覇市久茂地(喜瀨守昭撮影)

 夕刻時、近所の家からもくもくと立ち上る煙に、火事の危険を感じた少年は母と共に家を飛び出した。日本復帰直前に那覇から東京に移り住み、沖縄にはなかった焼き魚の習慣に振り回された記憶を笑いながら振り返るリウボウホールディングス会長の糸数剛一(62)。「沖縄と文化が全然違った。自分は日本人だと思って育ったけれど、東京を見て『日本に来たんだな』とつくづく思った」。「沖縄」を胸に抱えて東京で過ごした青春時代の経験が、後に沖縄らしさという「差異」を長所に変えてビジネスを展開する礎となった。

 1972年初め、泊小学校の卒業を目前に控えていた糸数は、大同火災海上保険に務めていた父・剛延(たけのぶ)の転勤に伴い、パスポートを持って東京へ移った。羽田空港から文京区のマンションまで向かう車窓越し、冬の暗い空に工場から煙が上る様子を見て、沖縄との違いを痛感した。

 勉強をしなくても成績は良かった糸数だが、4月に進学した文京区立第一中学校は、文教地区という土地柄か、教育熱が高く同級生のレベルが高かった。危機感と、席次が上がっていく面白さに「生涯で一番勉強した」と日に夜を継いで学業に打ち込んだ。「東京の人も大したことはないと自信を付けたかったのかもしれない」と振り返る。

 目の前を怒濤(どとう)のように過ぎる毎日に適応することに精いっぱいで、復帰した時のことについてはほとんど覚えていない。ただ、毎年のように帰郷する度に豊かになる一方で日本化していく故郷に、寂しさも感じていた。「元々日本に近い文化で、復帰はなるべくしてなったと思う。でも日本の閉塞(へいそく)的な部分はまねしなくていい。他の文化をチャンプルーするというらしさがもっと発揮されれば、沖縄は最高に魅力的な島になる」。外から沖縄を見詰めた経験から、この島の潜在的な可能性を確信している。

 (文中敬称略)
 (沖田有吾)


 沖縄が日本に復帰して今年で半世紀。世替わりを沖縄とともに生きた著名人に迫る企画の17回目は、リウボウホールディングス会長の糸数剛一さん。ビジネスを通じて沖縄の発展を目指す糸数さんの半生を紹介する。

 

 

 


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