騒音は痛み、静かな空を…85歳原告「やめられない」理由 第4次嘉手納爆音訴訟、28日提訴


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
40年間にわたり嘉手納爆音訴訟に参加する池原初子さん。39年前の口頭弁論で読み上げた陳述書に目をやる=14日、嘉手納町屋良

 「それは頭の芯までえぐられるような、痛みさえ感じるような音です」―。嘉手納町屋良に住む池原初子さん(85)は、1983年に行われた第1次嘉手納爆音訴訟の口頭弁論で訴えた。82年提訴の第1次訴訟から第3次までの40年間、爆音がなくなることを信じて闘ってきた。「爆音は変わらず、慣れることもない。何度声を張り上げても国に届かないが、やめてしまえば全部がなくなってしまう」。当たり前の静かな環境を求め、四たび立ち上がる。

 嘉手納で生まれ育ち、小学3年生で沖縄戦を体験した。戦時中は北部に疎開し、敗戦から数年後に故郷の屋良地域が開放され、嘉手納に戻った。故郷の姿は一変。目の前には広大な米軍基地が広がっていた。「自然が破壊され、自分たちのすみかがなくなった。悲しみ以外の何物でもなかった」。

 結婚後は嘉手納ロータリー周辺に住居を移した。68年11月19日未明、就寝中に爆発音で飛び起きた。米軍のB52戦略爆撃機が嘉手納基地に墜落した。「また戦争が来た」。泣き叫ぶ子どもたちと抱き合った。

 騒音は仕事にも支障を来した。20歳から洋裁を始め、復帰前にロータリーに店を構えた。米軍機の騒音で電話が聞き取れず、サイズや注文個数を間違えることもあった。

 第1次訴訟は弟の勧めで参加した。「爆音で眠れず、子どもたちも夜中に飛び起きた。子や孫に至るまで、この状態を残したくなかった」。

 第4次訴訟の嘉手納町内の原告数は7752人で、第1次の184人と比べ約42倍。町民の2人に1人が、訴訟に加わる。「みんなが爆音に耐えかねて参加するということは悲しい」。変わらない現状に唇をかみしめる。

 第4次訴訟は、日本復帰から50年の節目に当たる。「復帰できた喜びはあったが、その後も土地は返ってこないまま基地は大きくなり、爆音もひどくなった。沖縄はいつまで戦争の下にあるのか」。

 池原さんは、39年前に書いた陳述書を読み上げる。「難しいことを言っているのではありません。ただ静かな夜、静かな環境、静かな教育の場がほしいのです」。訴えは今も変わらない。

 (石井恵理菜)


 過去40年にわたって裁判闘争を繰り広げる嘉手納爆音訴訟の原告団が、28日に4度目の提訴をする。原告数は過去最大の3万5千人にふくれあがった。米軍機の爆音がない、静かな環境を望む原告らの思いに迫る。