2つのパスポートと招待状 歴史の間で往来した「国境」 元琉球政府職員の復帰<世替わりモノ語り>1


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(左から)沖縄復帰記念式典招待状、米国民政府発行パスポート、日本政府発行公用パスポート

 「その日は雨降りだったのを覚えている」

 1972年5月15日、日本政府主催の沖縄復帰記念式典は、東京と那覇の2会場で同時開催された。26歳だった平川宗隆さん(76)は、那覇ではなく東京・日本武道館の式典に招待され、参加した。招待者は式典実行委員長の佐藤栄作首相(当時)だ。

 「沖縄からは宮里松正さん(当時琉球政府副主席)が参列していた。体は小さかったが、堂々としていてね。だけど式典自体はあまり印象に残っていなんだよ」。基地の町・コザで育ち、フェンスを隔てて存在する圧倒的な衣食住の格差に不条理を感じていたが、復帰を迎えても不思議と高揚感はなかったという。

 平川さんは琉球政府職員だった。日本獣医畜産大学(現日本獣医生命科学大学)を卒業して獣医師免許を取得後、琉球政府の久米島駐在として食肉解体の検査業務に従事しながら、海外で野生動物の保護活動に関わることを夢見ていた。

 青年海外協力隊に選ばれ、復帰直前の72年3月に休職。3カ月間の訓練に参加するため、米国民政府(USCAR)発行のパスポートを持って4月に上京した。訓練を終えるとインドへ。72年は平川さんにとっても重要な年だった。

 USCARのパスポート、復帰記念式典の招待状、そして復帰後に発行された日本政府のパスポート。この三つを並べ、平川さんは50年前を振り返る。
 

(稲福政俊)

>>【続き】復帰式典の招待に「末次さん」 影響受けた「保守思想」に変化 元琉球政府職員の復帰


 2022年は復帰50年。復帰、海洋博、サミットなどの歴史的な出来事や、今はなき思い出の地、流行した歌や遊びなど、世替わりを経験した沖縄ならではの物語を、当時の品々(モノ)を通して紹介します。