戦後引き揚げ者が急増、食糧難に…生活苦で本島中南部へ移住増 超高齢化の島・渡名喜(下)<人口減社会を生きる>2


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終戦直後の食糧難に乗り切るため島内の山々に作られた段々畑。今は放置され草木が生い茂る=2021年12月、渡名喜村

 県内で最も少子高齢化が進み、将来的な存続が危ぶまれる渡名喜村。戦前からカツオ漁の島として知られていた。

 1945年の太平洋戦争の終結後、南洋諸島に出稼ぎに行っていた漁師家族や沖縄本島の収容所、本土からの引き揚げ者が急増し、40年に945人(国勢調査)だった渡名喜村の人口は、50年には1551人にふくれあがった。

 食料事情は一気に悪化した。島の集落は二つの山と丘陵地の間の低地にある。平地面積が少ないため住民は山の斜面を開墾して至る所に段々畑を形成した。住民はサツマイモを植えて豚を育て、本島へ出荷して生計を立てていた。

 島に住む70代の男性は幼少時を振り返り、「両親は朝昼晩、四六時中働いていた。島の山々のあらゆる場所にまで段々畑を作ったのに生活は豊かにならなかったので、島民の多くは出て行った」と語った。

 50年に朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)すると状況が変わった。米軍は沖縄の軍事機能強化を図るため、本島中南部で基地建設を進めた。この時期、経済的に苦しかった本島周辺離島や本島北部から、職を求めて家族総出で中南部へ移り住む事例が相次いだ。渡名喜島も同様に人口が流出していった。

 渡名喜村の70年の人口は50年比35.2%減の1004人、世帯数も同8.6%減の265戸に激減した。

 90年代に渡名喜村の人口移動を調査した、沖縄国際大学南島文化研究所の崎浜靖所長は「戦後、島の生活は助け合いで成り立っていたが、生活苦に耐えきれず那覇市周辺へ移り住む家族が多かった。その結果、漁業は衰退して過疎化も進行した」と説明した。

 崎浜所長は、日本復帰後の沖縄振興(開発)計画による社会資本整備により、小規模離島の人口減のペースは復帰前より鈍化しているものの、構造的な課題は依然として解消されていないと指摘する。渡名喜村の人口減少は続き、2020年の人口はピーク時の3分の1以下となる400人を切った。

 村は過疎化の対策として、空き家の利活用に向けた調査を開始している。比嘉朗村長は「一番先に住宅問題を対策したい。並行して産業を興し、子育て世代が安心して暮らせる環境をつくっていかないといけない」と強調した。

 崎浜所長は「有効な対策はなかなか思いつかないが、伝統的な集落景観を生かしたまちづくりを模索するのがいいのではないか」と提起した。

(梅田正覚)