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子どもも夫も「連れ回って」求めたことは…「1人の100歩より100人の1歩」 おきなわ女性財団理事長 大城貴代子さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


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「女性の歩みの語り部にならないと」と笑う大城貴代子さん=20日、那覇市内(ジャン松元撮影)

▼(1)「沖縄に恋した」結婚 女性の平等追い求め「権利は天から降ってこない」 から続く

 

 1940年、炭鉱で栄えた山口県宇部市で生まれた。父は小学校教員、母は畑を耕し専業主婦として4人の子を育てた。幼い頃から「女子は損だ」と感じていた。新築祝いに屋根の上から餅をまく行事があったが、女性は「不浄」と上げてもらえなかった。中学校は女子だけ自転車通学が禁止だった。

 日本が高度経済成長期に入った50年代、外で働いたことのない母は貴代子たち姉妹に「これからは女性も仕事を持たないと」と口癖のように伝えた。「自分も働きに出たい」とつぶやいたこともあった。一方、父には「息子は4年制大学、娘は短大」「女が4大に行くと口ばかり達者になって嫁のもらい手がなくなる」と言われた。学生時代を過ごした60年代には「女子大生亡国論」がもてはやされた。女子は高等教育を受けてもいずれ家庭に入って無駄になるから、その資源は男子に回すべきだとする差別的な言説だ。女性は「結婚適齢期」が23歳頃とされ、教育より「花嫁修業」が重視されていた。

 貴代子たちは家事育児に忙殺される母を見る一方、キュリー夫人の伝記からは夜、子どもを寝かしつけて研究を続ける人生を知った。2歳下の妹とは「家事と育児で終わる人生は嫌だ」「結婚しても働こう」と誓い合った。

 京都の短大に進学し、教員と栄養士の資格を取った。卒業後は山口に戻り、栄養士として働きながら、青年団を立ち上げて地域活動にいそしんだ。

共に運動、結婚へ

 

短大卒業を前にした大城貴代子さん(後列右)、妹・政子さん(同左)、(前列左から)母・房代さん、妹・三江さん、父・貢さん、弟・矩尚さん=1960年、山口県宇部市

 63年、青年団の交流で沖縄の青年たちが山口を訪れた。後に復帰協の副委員長も務めた故・大城栄徳もいた。

 当時貴代子が知っていた沖縄は、中学生で見た映画「ひめゆりの塔」くらい。栄徳たちは復帰運動に打ち込んでいることを語り「沖縄は里子に出され、生みの親の元に戻りたいと復帰を求めている」と説明した。沖縄はなぜそんな状況に置かれているのか、米国施政権下での暮らしはどんなものか。聞けば聞くほど関心は高まった。約半年後、山口から沖縄に初めて青年たちが派遣されることになった。候補者が全員男性だったことに異を唱え、添乗員と入れ替わって参加できた。

 延々と続く基地の金網に囲まれた街を抜け、守礼門や門中墓を見学し、南部では戦跡を歩いた。米軍基地内の将校クラブも訪問した。戦争から続く沖縄の現実が、肌身に迫った。

 交流会では、復帰を求めて闘う沖縄の青年たちの熱に、山口のメンバーは心をつかまれた。スポーツ大会やコーラスなど自分たちの活動がお遊びのように思えた。沖縄への気持ちがかき立てられ「沖縄病にかかった」。

 帰郷後、貴代子は栄徳と文通を続けた。文字でびっしり埋まった手紙は甘いラブレターではなかった。沖縄の状況や青年たちの運動の日々。共に運動したいと両親の反対を押し切り64年、結婚にこぎ着けた。「自分の目の黒いうちにはもう会えないのでは」と嘆く親族がいるほど、沖縄は遠かった。

 

実現が見えた「復帰」

 

 沖縄の前知識をほとんど得られないまま、異文化での生活が始まった。チョコレートやマヨネーズも日本製はなくアメリカ製。会話には「ハイスクール」「コフィー」と聞き慣れない英単語が混じる。水は天水をそのまま使い、やかんが重いと感じて中を見ると石灰分が層になっていた。日々の生活は驚きと戸惑いの連続で「私たちは沖縄を知らなかったし、沖縄も日本を知らなかった」。全国と大差ない暮らしとなった今「本当に変わった」とかみしめる。

 翌年の65年8月、佐藤栄作氏が現職首相として初めて沖縄を訪問し「沖縄の復帰が実現しない限り、日本の戦後は終わらない」と復帰に強い意欲を示した。貴代子は長男を出産して入院していた病院でこのニュースを聞いた。栄徳ら青年たちは実現するかも分からない復帰を求めて運動を続けていた。「これで復帰は実現する」と感動した。その日、栄徳は当時の東急ホテル(那覇市)前の抗議集会で学生と警官の衝突に巻き込まれ、流血していた。その時の傷は後々まで残った。

 

お茶くみから女性の労働問題へ

 

創設された女性政策室のスタッフらと大田昌秀知事(左端)へ新春あいさつに訪れた大城貴代子さん(左から3人目)=1993年1月4日、県庁

 妊娠中に合格していた琉球政府の採用通知が届いたのは出産3カ月後だった。米施政権下の沖縄はさまざまな社会整備が遅れていた。保育はその最たるもので、保育需要が特に高い那覇市に公立保育所は11カ所しかなく全国の類似都市の3分の1程度。多くの子どもが待機となった。貴代子の長男も入れず、義姉に預けて働き出した。

 頼れる親族が少なかった貴代子たちにとって、5年後に生まれた長女を含めて子どもの預け先の確保は困難を極めた。近所の人、無認可園、夜間保育と渡り歩き、預け先は10カ所にもなった。当時認可園には延長保育もなく、朝の送りは栄徳、夕方の迎えは貴代子と分担して職場と保育所の間を走った。夏休みには山口県の貴代子の実家まで子どもたちを送り込んだ。

 最初に入職した建設局建築設計課は技術職の男性ばかりで、唯一の女性事務職である貴代子の仕事はお茶くみに出張旅費の計算。必死で子どもを預け、自宅の食器も洗わずに大急ぎで出勤した職場で、男性職員にコーヒーを入れて灰皿を洗う。「なんで女性だけ」と不満を口にすると「わがままだ」と切り捨てられた。

 「難儀して共働きをして、この仕事ではやりがいを見いだせない」と転職を考えていた時、労働局婦人少年課の仕事を知った。「こんな仕事がしたい」との気持ちが沸いたが、琉球政府内部での異動は望めなかった。採用試験を受け直して67年、女性の労働問題を担当する部署に“再採用”された。

 67年、誘われて官公労婦人部長となり、翌年には県労協婦人部も立ち上げた。これらの団体が集まり67年には沖縄婦人団体連絡協議会(婦団協、現女団協)が結成され、貴代子は副会長に就いた。教員や看護師など一部の職種にしか認められていなかった育休の拡大などに取り組んだ。

 復帰が現実に迫ってくると、通貨切り替えによる物価上昇や便乗値上げが日々の生活を直撃した。県労協婦人部で県内物価を調査し、130品目のうち魚、肉類、昆布など3割が10%以上値上がりしているといった実態を発表。婦人会が各地で開いた値上げ反対集会にしゃもじを手に参加した。

 72年5月15日には、雨の那覇市民会館前で放送局のインタビューを受けた。「蛇口をひねれば当たり前に水が出る生活になってほしい」と答えたのを覚えている。山口では結婚前から当たり前だった水道や電気が、沖縄では断水・停電が繰り返されていた。一主婦としての正直な気持ちだった。

 復帰運動の中核を担った男性から「復帰運動には女性の運動がなかった」と言われたことがある。「何をもって女性の運動というか」と貴代子は反論する。確かに女性の権利や差別についての言及は少なかった。ただ復帰に伴う制度の切り替えは、通貨から交通、組織体制まで社会を激変させた。家庭の仕事の多くを担っていた女性たちは、その波から暮らしを守るのに精いっぱいにならざるを得なかった。逆に女性たちが暮らしを一手に引き受けていたから、男性たちが基地などの議論に集中できた側面があった。

 復帰の混乱が落ち着いた後、78年に結成された第2次婦団協は国際婦人年の開始に合わせ、身近な差別をなくそうと女性のトートーメー継承や雇用機会の男女平等、家庭科の男女共修などを求めて運動した。87年からの第3次は女性登用を推進し、女性が女性を押し上げようと「第一線で活躍する女性たちの祝賀激励会」などを続けた。制度の不平等をただし、ようやく女性登用や政治参画にたどり着いた。「ディキヤー(できのいい)の女よりディキランヌー(できの悪い)の男の方がいいと言われた時代から、やっとここまで来た」と振り返る。

 

結婚前に文通した手紙などを前に語る大城貴代子さんと夫の栄徳さん=2006年4月、那覇市内の自宅

定年1年前、介護の道へ

 

 大田県政で新設された県の女性政策室を経て96年、2人目の女性部長として生活福祉部長に就任した。その1週間後、くも膜下出血で栄徳が倒れた。貴代子56歳、栄徳58歳。子どもたちは独立し、やっと自分のことに向き合えると思った矢先に、「部長職を支えるよ」と励ましてくれた夫が言葉と体の自由を失い、介護が降りかかった。

 栄徳は病棟や入所施設でリハビリをしていたが、倒れて4年目に退所を迫られた。貴代子の定年退職まで1年。「この1年を乗り切れば」と日中のリハビリに送迎してくれる人を探して手を尽くしたが、見つけられなかった。

 「結婚しても、出産しても、年を取っても働き続ける」と掲げ、女性が働く権利が保障される社会を目指し走り続けた。「嫌と言うほど苦労した」という子育て中も踏ん張って、ゴール目前でのリタイア。悔しさと、介護の先が見えない不安でいっぱいだった。

 光になったのは、失語症友の会との出会いだった。「旅は最高のリハビリ」と2人で海外旅行にも度々出掛けた。栄徳を1人家に置くわけにいかず委員を務める審議会や女友達との食事会にも同伴した。「子育て中は子どもを連れ回り、退職後は夫を連れ回った」と笑う。会での活動は、栄徳が2010年に亡くなった後も続けた。

 この50年で沖縄の風景も女性の立ち位置も大きく変わったが、ジェンダー平等はいまだ遠い。「リーダー育成も大事だが『1人の100歩より100人の1歩』。課題の認識や啓発から一歩進んで、解決のための行動を起こしてほしい。すべての女性の平等へ、女性同士が手を取り合い、声を上げて」。経験の詰まったバトンを託した。 

 

 (文中敬称略)
 (黒田華)