沖縄署抗議と知事選 権力の理不尽と闘う 菅原文子さんコラム<美と宝の島を愛し>


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 沖縄署警察官の制止行為で、男子高校生が眼球破裂の重傷を負った。これは小さな事件ではない。深夜出歩く未成年者を犯罪から守るのが警察の第一義的な役目で、不審者扱いで追い回し取り締まるのは慎重でなければならない。重傷を負いながらその場から動いたのは、闇の中、見えぬ相手によほどの恐怖を抱いたのだろう。

 報道を読んで不可解だったのは、高校生自らが救急車を呼んでいることだ。眼球破裂の重傷を負わせるほど強い制止行為を掛けたなら、警察官自身も自分の身体に受けた感覚から推して、大人の判断として少年のけがを心配するのが普通だ。なぜけがを案じての救援要請をしなかったのか、なぜ単独で巡回していたのか。

 当初は、沖縄署前での若い人々の抗議行動に報道の焦点が置かれていた。集まった若者たちの中で行き過ぎ行為も散見されたようだが、おおむねそれなりの自制を彼らはしている。片付けもしたようだし、慌てて火を消し止めもしている。

 この事件の焦点は警察署前の若者たちの騒ぎではない。彼らが警察署前で抗議の声を上げなかったら、警察側は事態を外部には秘し、けがを負った少年は障害を負った上、不利な立場のままで処断され、いつか事件は忘れ去られただろう。ひるむことなく立ち上がった若者たちの友情、理不尽を非難する気持ちは尊重されなければならない。

 これからも世の理不尽、権力の理不尽には山ほど遭うだろう。その時も闘う気持ちをいつまでも持ち続けてほしい。沖縄においては、米軍と米国政府の理不尽もさらにダブルだ。何と困難な沖縄なのか。

 気持ちや意志を個人が表現することを、同調圧力のかかる日本社会では敬遠する。個人より国家の利益を最上位に置いたのが明治維新に始まる戦前までの日本、それは中世に逆戻りした日本だったが、敗戦後、転じて民主主義を国是にしてもなお、まだ「長いものには巻かれろ」の抑圧から解放されていない。

 先に行われた名護市長選挙の焦点は、米軍基地を受け入れることで政府から受ける報奨金を取るのか、将来の沖縄の繁栄と安寧を選択するのか、が問われた。多くの政治家は目前の利益を選挙民に語り、あっちの水は苦いよ、こっちの水は甘いよ、と誘惑する。今回の選挙も、「言うことを聞くなら金はやろう」という日本政府のいつもの汚い冷酷なやり方に従ってしまったのか。

 沖縄県知事選が控えている。沖縄を再び戦場にしないためには、日本政府の仮面をかぶった米国軍部、その意思を反映する自民党系候補者に苦い水を飲ませるしかない。同じ県民でありながら反目し合うのも苦しい選択だが、沖縄警察署前で抗議のアピールをした高校生たちの理不尽に抗する熱い気持ちに学び、世俗の苦労の末に弱りがちな気持ちをもう一度燃やそう。

 友人から贈られた「沖縄ひとモノガタリ」(琉球新報社刊)の巻末に、玉城デニー知事のかっこよい写真とともに、インタビューが終わった時にベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」をアコースティックギターで歌った、とある。「俺を信じ、俺についてきてくれ」という思いで歌われたと思う。

 今度の知事選も伊江島から始まるのだろうか。選挙期間中のテーマソングは、これで決まりだ。ギター片手の選挙戦、これは敵陣には逆立ちをしてもできない。玉城デニーその人ならではの、世界に通用する人間の大きさだ。玉城知事が沖縄県政からもし去ることがあったら、沖縄、そして日本は将来を失い、コロナ禍よりもっと暗くなる。沖縄で再び血を流さないための選挙だ。4次元の世界にいる夫も、その時はデニー知事の傍らで歌うだろう。見えないが、見えるのが魂だ。

 

(本紙客員コラムニスト、辺野古基金共同代表)