継承すべき記憶「私は見える」 平和ガイドを養成する意味<おきなわ巡考記>


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 南風原平和ガイドの第11期養成講座が毎週1回、3月初めまで開かれている。戦後77年。沖縄戦の実相という史実に真摯(しんし)に向き合い、想像の翼を広げて遠ざかる記憶を過去に封じ込めない。講座の一環として取り組まれた戦跡巡りに同行し、「新たな戦前」ともいわれかねない状況に目を配りながら「平和に向かってガイドする」ことの意味も感知する。

 講座は、座学に終始することはない。町内のあちこちに点在する戦跡も回る。

 講師役の南風原文化センター学芸員、保久盛(ほくもり)陽(あきら)さん(31)が受講者を車で案内した。中には、案内板すらなく、痕跡も全く残っていない戦跡もある。しかし、保久盛さんは「私には見えるんですよ」と言い切った現場があった。

 そこには日本軍の戦車部隊が武器を保管していた壕があった。開発で跡形もないが、保久盛さんは以前、その調査・発掘に関わった。近くで日本兵の遺骨2体も見つかった。解説しながら、想像は飛んで行く。77年前、ここで戦闘が確実にあった。光景が目の前に現れる。「見える」のだ。

 「自分は体験者ではありませんが、調査・発掘、聴き取りに関わった者として記憶の継承者、証言者にはなれるんです」

 熱心に耳を傾ける受講者。第10期の中村美智子さん(61)らも「もっと知りたい」と加わっている。そして、第11期の今回の受講者5人。地元・南風原町から3人。

 大城悟さん(62)は民泊を経営する。「沖縄戦も含め、自分の町のことをきちんと知っておきたい」からであろう、保久盛さんに質問を重ねる。當眞利江さん(43)は長女が小学生時代に「南風原町子ども平和学習事業」に参加した縁で、「親として自分も学ばなくては」とメモをとる手を休めない。最年少の當山桜子さん(15)も、その「平和学習事業」で3年前に広島、大阪に派遣された。4月、高校生になる。「理科系の教科が得意だけど、沖縄戦や平和についても、もっと勉強したい」と。

 県外出身者が2人。大久保謙さん(37)は神奈川県生まれ、東京での大学時代、渡嘉敷島の隣の離島を1人で訪れたのが沖縄との縁の始まり。マネジャーとして「お笑い米軍基地」のお笑い芸人、まーちゃん(小波津正光さん)と県内の学校を訪れて基地や沖縄戦のトークイベントに取り組んだ。その経験を生かし、平和ガイドの知識も身につけて「沖縄戦や沖縄の現況を伝えるためのプロデュースをやってみたい」。

 井上阿紀子さん(36)は大阪生まれで京都の高校教諭(英語)。昨年、公務員の自己啓発休業制度を利用して休職し、沖縄国際大学大学院に入学した。高校時代と大学時代に英国留学の経験があり、教師になる前には青年海外協力隊員としてアフリカのブルキナファソ、ボツワナで活動した。「ひめゆり学徒隊の足跡をたどりながら沖縄戦の記憶継承を考えたい」と、学徒隊が活動した陸軍病院壕がある南風原での受講を希望した。

 その陸軍病院壕群という戦争遺跡を1990年、南風原町が全国で初めて文化財に指定。そのうち20号壕を整備して一般公開した2007年、説明役としてのガイドの養成講座が始まった。

 これまでに講座修了者は130人を超える。今期の5人も受講の動機や経歴はさまざまだが、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えるガイドの役割を理解して講座に臨んでいることが見て取れる。講座修了者でつくる南風原平和ガイドの会、井出佳代子会長(61)は「学んだ人がさまざまな機会に沖縄戦について語り継ぐことが、いま、いかに大切か」と実感を込める。

 「有事」を強調する言説がまかり通る。「人間が人間でなくなった」沖縄戦の記憶。それをたぐり寄せ、いま「見える」ものとして語る平和ガイドの役割は一層重く、大きい。

 (藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)