選手として海邦国体総合優勝に貢献 興南では生活改善から指導 人間育成の大切さ教わる<興す沖縄ハンド・名将 黒島宣昭の歩み>2


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海邦国体成年男子・3位決定戦 主将としてチームを引っ張り、ゴールを狙う黒島宣昭さん(右から2人目)=1987年10月、浦添市民体育館

 《日体大を卒業後、1983年に興南高の監督に就いた黒島宣昭さんは、4年後に迫る海邦国体の成年男子に出場するため、指導の傍ら自身も鍛錬を続けた》

 大学同期の喜舎場淳一が教員として浦添高に赴任した関係で、平日の週3日、午後8~10時に成年男子のメンバーで浦添高に集まって練習した。離島で夏合宿をして団結力を高めたりもして。実業団チームが出る県は強かったから、成年男子が立てた目標は4強入り。大崎電気にいた東江正作も海邦国体が近づくと沖縄に戻ってチームに合流し、新垣健監督の下で土日も含めて週4~5日は練習した。本番は自分が主将を務めた。

 《各選手が強豪大学、実業団から持ち帰った先端のフォーメーションや技を磨いたチームは順調に勝ち進み、ベスト4を達成。3位決定戦では高さのある埼玉(大崎電気)に28―39で敗れたが、新垣監督は「トップレベルのチームから28点も取れただけでも最高の試合。全日本の一角に入ったことは素晴らしい」と健闘を誇った》

 大崎とは自力の差はあったけど、どうにかして食ってやろうという強い気持ちでプレーしていた。地元から大学や実業団に行き、帰ってきた選手が集まって自信も付いていた。

 さらに儀間次男監督が率いた少年男子、新里泰一監督が率いた少年女子はアベック優勝。沖縄は総合優勝を果たせた。81年に又吉栄久監督の下で神森中男子が沖縄で初めて全国中学校大会で優勝して、そのくらいから当時の先生たちが団結して選手を強化し、各世代で強さを増していた。ハンドボールの主会場だった浦添市では試合や練習で使われたゴールポストが各小学校に寄贈され、子どもたちに競技が普及した。その後の沖縄ハンドの発展にとって、海邦国体は非常に大きな出来事だった。

 《88年には新垣監督率いる小禄高男子が全国総体で県勢初優勝を飾り、クラブチーム「パームヒルズクラブ」も初の全国制覇を達成。各世代で強化の成果が実る中、興南の監督という顔も持っていた黒島さんは新米指導者としても奮闘する日々を送っていた》

 お世話になった新垣先生に「追い付け、追い越せ」という気持ちで、「やるからには日本一」と思って指導していた。22歳で監督になって選手と年齢が近かったから、当時は兄貴分のような感じ。新垣先生にはよく「ハンドボールを通じた人間育成が大事だよ」と教えられてたね。

 既に中学世代のレベルが上がっていたから能力の高い選手もいて、監督に就いた83年の県総体ですぐに優勝した。でも当時はやんちゃな子が多かった。朝学校に遅刻する生徒が多くてね。部活だけ来る子もいた。どれだけうまくても、それだと進路相談で話にならない。毎朝8時に学校に集合して登校させたりして、生活改善から始めた。

 今でもそうだけど、ハンドの指導では1対1の個人技を重視した。沖縄は上背では県外のチームに勝てないけど、スピードを養えば十分に戦える。ハンドは沖縄の子どもたちに合っている。当時もスピード練習ばかりやっていた。

 《指導が実り、22期生の比嘉薫や30期生の田場裕也など世代別日本代表に選ばれる教え子も増え、就任から15年間で総体と選抜を合わせ全国3位が4回。悲願の日本一まであと一歩に迫っていた》

 全国では準決勝が壁だった。他のチームと同じように当時主流だった一線守備をしていたけど、どうしても高さや幅のある相手に上から打たれたり、間を抜かれて付いていけなかったりする。打開策を模索していた。

(文責 長嶺真輝)