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一度は別々の道へ 塩づくりに励むきょうだい 高安正勝、高安藤 前原高校(6)<セピア色の春―高校人国記>


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与那城村(現うるま市)西原から現在の敷地に移転した頃の前原高校=1958年(創立40年記念誌「肝高」より)

 前原高校を卒業し、別々の道を歩んだきょうだいが今、一緒になって塩造りに励んでいる。うるま市与那城宮城の製塩業ぬちまーすの社長で21期の高安正勝(74)と副社長で17期の高安藤(78)である。

 高安正勝は1947年、具志川村(現在のうるま市)田場で生まれた。生活は苦しかった。

高安 正勝氏

 「貧乏で、借金取りがやってきた。朝から晩まで働く親を見ているので怠け者にはなれなかった」

 小学生の頃から草刈り、豚の餌やり、サトウキビの収穫に励んだ。手際よくキビ刈りをこなす働き者の正勝は周囲の農家にも頼まれ、収穫を手伝った。

 軍隊帰りの父は毎晩のように酒を飲みながら正勝を相手に偉人の話をした。小学1、2年の時は二宮金次郎、3、4年になると湯川秀樹に変わった。

 「敗戦で自信をなくした父は湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞で『日本人も捨てたもんじゃない』と思うようになったようだ。その意識は僕にも伝わった」

 幾晩も同じ話を繰り返す父に根気強く付き合った正勝は物理学に関心を抱くようになった。

 63年、前原高校に入学し、物理の勉強に熱中した。畑仕事は続いていた。「農家だから当たり前だ」と割り切っていた。部活動を楽しむ余裕はなかった。

 琉球大学に進学。物理を学びながら生命科学にも関心を向けるようになる。大学院で博士号を取ることも考えたが卒業し、南西航空(現日本トランスオーシャン航空)に就職し、旅客機の安全運航を支える業務に就いた。

 南西航空に12年勤めた後、洋ラン栽培に取り組む。物理の知識に基づく栽培技術を生み出した。97年、塩専売制廃止のニュースを聞き製塩業を思い立ち、ベンチャー高安(現ぬちまーす)を創業した。ミネラルを多く含む塩は評判を呼び、県内外に販路を広げている。

 「父の無念が僕の頭にしみ込んでいる。このことが僕の人生を決めた」と正勝は語る。今年、ぬちまーすは新工場を建設する。

高安 藤氏

 姉の高安藤は1943年生まれ。晩酌時に父が繰り返す偉人の話は苦手だったという。

 59年、前原高校に入学した。与那城村(現うるま市)西原から現在地に移転した翌年である。高校には平安座など島しょ地域の生徒も集まった。「中学までは具志川の人だけだった。離島の生徒はしゃべり方が違う。異文化だった」

 読書が好きだった。校舎の階段の下に設けられた図書室に通い詰めた。同級生は熱心に本を読む藤の姿を覚えているという。

 「ドストエフスキーなどのロシア文学やヘルマン・ヘッセの作品を夢中になって読んだ」と振り返る。読書を通じて藤はさまざまな人生を受け入れる姿勢を学んだ。

 友人と連れだって安慶名の映画館にも通った。「授業を抜け出して映画を見に行ったこともあった。楽しかった」と懐かしむ。JRC(青少年赤十字)活動にも携わり、各地の高校生と交流した。

 薬剤師になるため大学進学を目指したが経済的な事情が許さなかった。職業訓練校の英語講座で学び、米軍基地に職を得た。その後、当時の国際大学で学び、アイオワ大学に留学した。帰郷後は語学力を生かし、米国民政府や電力会社などで働いた。

 84年から2008年まで在沖米国総領事館に勤務。99年から広報・文化担当補佐官として沖縄と米国の橋渡し役を担った。その間、沖縄から米国に渡った文化財の調査に取り組む。琉球・沖縄の歴史と文化への理解を深めるため琉球大大学院でも学んだ。

 「高校時代、視野は狭かったし、具体的な夢があるわけではなかった。卒業後、その時々の判断で人生を決めていった」と藤は回想する。その積み重ねの末、その視野は海外へ、そして琉球・沖縄の独自の歴史と文化へ広がっていった。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場