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スポーツに情熱…名指導者に 花園初勝利の安座間良勝さん、バレー「優勝請負人」宇地原徳仁さん 前原高校(7)<セピア色の春―高校人国記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
1960年代初めの前原高校の校門(17期卒業アルバムより)

 前原高校でスポーツに情熱をぶつける2人の高校生がいた。卒業後、高校教師となり、ラグビーとバレーボールの名指導者となった。

安座間 良勝氏

 安座間良勝(78)は17期。県内6高校でラグビー部を率い、強豪チームに育て上げた。

 43年、テニアンで生まれ、敗戦後に具志川村(現うるま市)に引き揚げた。幼少期に父と妹を立て続きに亡くした。家族は耐乏生活を送った。

 「僕は朝早く起きてイモを掘り、ブタに餌をあげて学校に行った。母は軍作業やパンの行商をして子どもを育てた」

 59年、前原高校に入学した。大学進学を断念した姉と母が安座間の高校生活を支えた。学校は前年に与那城村(現うるま市)西原から現在地に移転したばかり。校庭の整備に生徒も駆り出された。

 「植樹に明け暮れ、作業で大変だったが、新設の校舎で学べることは誇りだった」と安座間は語る。

 「自由で伸び伸び。生徒の自主性を重んじた」と当時の校風を振り返る。生徒会活動も活発で、学校側の生徒指導に異議を申し立てることもあった。「われわれの自治を壊すなと訴え、生徒間でも討論した。思想的にしっかりしたものを持っていた」

 安座間はバレーや陸上競技に励んだ。「スポーツが盛んな前原高校でいろんな種目に取り組んだ。おかげで筋力を鍛えることができた」と振り返る。琉球大学に進み、ラグビーと出合う。楕円(だえん)形のボールを追う未知のスポーツの魅力に取り付かれる。

 67年、体育教師として読谷高校に赴任。陸上部とラグビー同好会の指導に力を入れる。コザ高校を率いた84年、ラグビーの聖地・花園ラグビー場で県勢初の一勝をもぎ取った。「あの一勝は大きかった」。このチームで安座間の指導を受けた安村光滋は高校日本代表に選ばれた。

 2004年、具志川高校で定年を迎えた。教え子たちは今も恩師を慕う。35年間のラグビー指導者人生。「ラグビーに出合えて良かった」と安座間はしみじみ語る。

宇地原 徳仁氏

 同じ17期にバレーボール指導者の宇地原徳仁がいる。兄の徳淳、徳秀、徳福も県内バレー界で活躍した。

 1943年、具志川村(現うるま市)平良川で生まれ、兼原小学校に通う。平良川はバレーボールが盛んな地。家の前の広場には地域の子どもたちも集まり、ネットを挟んでプレーを楽しんだ。

 具志川中学校を経て前原高校に入学。当時、バレー部を指導していたのは体育教師の兄、徳淳だった。「男子バレー部は部員が少なかった」というが、徳仁はバレーに情熱を注いだ。60年の熊本国体で強豪の日本鋼管を破った沖縄チームの活躍に胸を躍らせた。

 応援団を兼ねたリーダー部の存在感を懐かしむ。「空手部の先輩たちがリーダー部を仕切っていた。怖くて怖くて」。生徒挙げてスポーツ選手を応援する雰囲気が広がった。「選手にとっては良かったと思う」

 体育教師を目指して琉球大学に進学し、バレーに熱中する。66年、読谷高校に赴任。バレー指導者となった宇地原は部員を前に「読谷高校を沖縄一にする」と目標を掲げた。「その後も赴任した高校で『沖縄一にする』と一発かました。まずは『ホラを吹く』がモットーだ」

 宇地原は「ホラ」の実現を追い求めた。熱っぽい指導で赴任校の読谷、母校の前原、コザ、中部商業高を沖縄一に導く。宇地原は「優勝請負人」と呼ばれるようになる。中部商業高の教え子、星野賀代と座安琴希は五輪代表選手となった。2004年、定年を迎えた。

 15年、古希を祝う宴が沖縄市であり、100人の教え子らが集まった。コートを駆けた教え子たちを宇地原は「ファミリー」と呼ぶ。

(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場