宮城千恵さんの継承 惨劇伝える絵本、復刊決意<おきなわ巡考記>


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 宜野湾市の平和通訳、宮城千恵さん(63)の祖父母は77年前の3月28日、渡嘉敷島の「集団自決」(強制集団死)で命を落とした。その慰霊の場で今年、宮城さんはある計画を報告する。平和への強い思いを込めて、祖父母が巻き込まれた惨劇の物語を描いた絵本の復刊である。

 宮城さんは県立南風原高校の英語教師だった2007年、絵本「A Letter from Okinawa」(沖縄からの手紙)を出版した。現在、絶版のこの本は英語と日本語がセットになった26ページの短編。英訳に際し、微妙な言い回し、ニュアンスに配慮しなければならないため、沖縄国際大学のピーター・シンプソン准教授(当時)の助けを借りた。絵は義弟の平良亮・石垣市立白保中学校教頭(当時)が担当した。

 物語は、宮城さんの母幸子さん(2018年、90歳で死去)の目を通して展開する。

 「昔、幸子という女の子がいました。幸子は日本語で幸せな子という意味です」。こんな書き出しで始まり、おかっぱ頭の女の子が大きな口を開いて笑っている絵が添えられている。よく見ると、おかっぱはザンギリに近い。散髪は父親の担当で、いつも上手とは言えない仕上がりになる。それでも幸子さんはうれしかった。

 その父親、つまり、宮城さんの祖父は渡嘉敷島の名士だった。沖縄島から小学校の教師として赴任。以後、学校長、村長にもなった。いつも元気で陽気。お酒が入ると、家の柱を登る仕草が得意だった。9人きょうだいで5女の幸子さんは両親の愛情と、渡嘉敷島の豊かな自然の中で何不自由なく育った。当時の学校教育について。

 「幸子は学校で日本語を話すことと書くことを教えられました。そして、日本の天皇を敬愛することを学びました。そして、みんながお国のために戦い、死ぬことは名誉なのだと教えられました」

 長じて親元を離れて那覇の県立首里高女に進学。卒業年の1945年、瑞泉学徒隊として看護動員された。卒業式は3月27日、病院壕の前で行われた。式は米軍の艦砲射撃で中断され、そのまま終了した。

 病院壕では切断された手足を運び、負傷兵の排せつ物やウジ虫の処理に忙殺された。瑞泉学徒隊は61人が動員され、33人が犠牲になった。

 生き延びた幸子さんは、収容所から両親に手紙を書いた。だが、両親は幸子さんが臨んだ卒業式翌日の28日、「集団自決」という信じがたい死を遂げていた。返事が来るはずはなかった。絵本は、こう結ぶ。「私たちのできることは生き続け、このようなことを二度と話さなくてもいいような世界にすることなのです」。

 宮城さんは国の派遣でオーストラリアの大学に、さらに大学院修学休業制度を活用して英国・北アイルランドの大学院にも留学。「平和教材を使いながらディベート(討論)を通して考える力を養う」ことをテーマに英国とハンガリーで絵本にする前の原画を紙芝居にして沖縄戦を語った。相手はともに日本の高校生に当たる年代の少年少女。「主人公の幸子は私の母です」と締めくくると、驚きの声が上がった。そして「集団自決」の意味を問われた。どうして親が子を、子が親をあやめ、家族で手投げ弾を囲んだのか。宮城さんにも、それは十分に説明できない。

 「なぜ なぜ 亡くなったの おじいちゃん おばあちゃん」

 宮城さんがつくった鎮魂歌「命どぅ宝」の一節である。「平和な 平和な この島で 起った悲しい出来事」を繰り返してはいけない。「戦争前夜」を思わせるような今、できることは、絵本を復刊して集団死を含む沖縄戦の実相をもっと広く知ってもらうことだ。その上で、「台湾有事」「沖縄有事」を言い立てる勢力に問う。沖縄をどうしようというのですか。沖縄の人々をどのように考えているのですか。

 (藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)