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米兵の心癒やしたジャズ、復帰でクラブは閉店…世替わり超え刻むリズム ジャズドラマー・上原昌栄さん(2)<復帰半世紀 私と沖縄>


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インタビューに答える上原昌栄さん=宜野湾市の伊佐公民館(喜瀬守昭撮影)

「苦境超え ジャズ、沖縄に根付く ジャズドラマー・上原昌栄さん(1)」から続く


 上原昌栄は1936年1月15日、父・徳榮と母・富枝の間に8人きょうだいの長男として生まれた。昌栄家族は、父が東京警視庁の職員として10年間勤務した後、昌栄が生まれる1年前に故郷の沖縄へ戻り、那覇市通堂町にあった母の実家「神山旅館」に住んだ。三線で琉球古典音楽に没頭する父。昌栄は「父が奏でる歌三線を聞いて育った」と幼い頃を振り返った。

憧れのトランペット
 

 42年、天妃国民学校に入学する。朝礼で日の丸が掲揚される時、教師の外間永律が吹くトランペットに憧れを抱いた。「自分もトランペットを吹いてみたい」。父の三線の音と、学校で聞くトランペットの音色によって次第に「音楽」への思いを強めていく。

 アジア太平洋戦争の波は沖縄にも押し寄せた。44年春、昌栄は姉と一緒に父の実家がある国頭村比地へ疎開した。転校した国頭国民学校奥間分校(現奥間小学校)では、担任だった安慶名トヨの音楽の授業に魅了された。「安慶名先生が唱歌を歌い、音楽を教えてくれた。同級生とも草笛をしながら音楽を楽しんだ」

 10月10日の10・10空襲で那覇は壊滅し、昌栄の親戚たちは那覇から国頭村に疎開してきた。45年4月1日の米軍沖縄上陸後、昌栄たちはやんばるの山奥で逃げ回り、戦火の中をくぐり抜けた。沖縄戦では、父が大事にしていた三線が入った箱を大事に持ち続けた。

 沖縄戦が終わり、国頭中学校に進学した昌栄は、米軍の払い下げ品のオルガンが学校に設置され、担任の知花芳子からさまざまな音楽を学んだ。「先生の弾くオルガンによってますます音楽が好きになった」と振り返る。体育祭では草笛音楽隊を結成し、数学の山田親夫から草笛の指導を受け、盛り上げた。

 51年、辺土名高校へ入学した後、2学期に那覇高校へ転校し、ブラスバンド部に入る。幼い頃から夢に抱いた吹奏楽の花形のトランペットを手に持ったのは高校3年になってから。それまではトロンボーンの担当だった。「卒業する先輩からトランペットを譲ってもらったが、先輩から『バンドを生かすも殺すもトランペット次第』と言われたことを肝に銘じてトランペッターになった」と言う。

ドラムに引き込まれ
 

VFWクラブでドラムをたたく上原昌栄さん=1969年ごろ(本人提供)

 那覇高の音楽の担任だった兼村寛俊に誘われ、沖縄各地に点在する米軍のクラブに足を運んだ。兼村からは「構えるだけでいい」と言われ、これまで触れたことのない楽器を手に携え、ステージに上がった。その中でドラムは、兼村から高い評価を受けた。幼い頃、比地の豊年祭で、三線を弾く父の隣で太鼓を打つ役を任されていた昌栄。「ジャズのビートと沖縄のリズムが似ている」ことに気付き、ジャズの音色に乗せて、たたき続けた。兼村からは「ドラムのリズムが素晴らしい。君はドラムをやった方が伸びる」と言われ、昌栄はドラムの世界に引き込まれていった。

 高校卒業後の54年、恩師や同級生らとバンドを組み、クラブでドラムをたたいた。中でも那覇高時代の同級生、小浜健(ベース)と山川高宏(テナーサクソフォン)、後輩の新崎純(トランペット)とは、公私含めて仲良く、音楽活動に没頭した。56年には鈴木英夫コロンビアバンドに入団し、58年にクラブオリオンと契約。バンド名を「バードランドファイブ」と名付けた。

 米軍の将校クラブやNCOクラブ、EMクラブのステージにも立ち、ドラムをたたいた。一般の兵士たちが集まったEMクラブでは米兵と多く交流を深め、3人の友人ができた。「米兵と友達になれば、お金を渡してPX(基地内の店)でレコードを買ってきてもらえる」。昌栄は、友人と英語で会話できるようにと、尚学院で英語を勉強した。

 昌栄が当時夢中になったレコードはジーン・クルーパやマックス・ローチ、バディ・リッチなど有名なジャズドラマーたちの演奏だ。「クラブでたたきながら、彼らが演奏するジャズの醍醐味(だいごみ)と技を習得した」。友人でバンド仲間でもあった友寄隆生からは渡辺貞夫から習得したジャズの音楽理論を学んだ。その理論は沖縄のジャズアーティストたちの意識を高めた。「彼(友寄)のおかげで沖縄のジャズは発展、振興していった」と強調する。

給料減ってもやりがい
 

 66年、浦添市小湾にあった退役軍人クラブ「VFW」に入った。大きなダンスホールときらびやかなステージは魅力的だった。当時、VFWのオーディションには15チームのバンドが参加。EMクラブで演奏活動していた西平繁から演奏中のアレンジを任された昌栄は、楽器を持ってフロアへ下り、客の目の前を練り歩く演奏スタイルを提案。ジャズにマーチングバンドの動きを取り入れるなど独自色を打ち出したことで「会場がどっと沸き、採用を勝ち取った」と笑顔で語った。

 VFWでは、バンドマスターの西平や屋良文雄らと共に毎日華やかなステージを繰り広げた。国内外のアーティストらが訪れ、伴奏も任された。さまざまなジャンルの演奏を繰り広げた。食事タイムは軽めの音楽、ドリンクタイムはスタンダードジャズ、ダンシングタイムにはブルースなど曲を替えて演奏し、客を楽しませた。

VFWクラブ時代、ドラマーとして在籍した上原昌栄さん(後列中央)=1960年代、VFWクラブ(本人提供)

 給料は高く、VFWでもらっていた月給は当時の琉球政府主席を上回り300ドルを超えたという。昌栄は那覇市内に土地を買い、家を建てることができた。音楽は生活の糧になっていた。

 日本復帰前の沖縄では米軍の事件事故が後を絶たず、復帰運動も盛んだった。昌栄自身も「復帰は望んでいた」と言う。一方で、自分たちにとって米軍はお金を得るための収入源でもあった。米軍のクラブに入る時には、米軍に抗議する住民や労働組合と対立することもあった。「ゲート前では『なぜ基地に加担するのか』と言われた。自分たちにとって音楽は生活の糧だった。彼らの気持ちは分かるが、あの頃はいつも『私たちの生活を保障してくれるのか』と言い返していた」。

 一方、米軍のクラブでは、兵士同士のいざこざやベトナム戦争に向かう直前の兵士たちが酒を浴びるように飲み、騒ぐ姿を目の当たりにした。

 72年5月15日を境に、米軍クラブは次々と閉鎖。VFWも解雇となった。妻と子どもがいた昌栄は、復帰後はレストランのオーナーもしたが、「音楽しかやってこなかったので、経営者としてはうまくいかなかった」と振り返る。音楽への思いは強く、昼間はタクシー運転手や建設会社の営業などの仕事をしながら、夜はキャバレーに出向き、ドラムをたたき続けた。「復帰前に比べて給料は少なかったが、やりがいはあった」と笑顔で語る。

生涯、音楽続けたい
 

 79年には、三線をしていた父の影響で野村流伝統音楽協会師範の上原正光の研究所に入門し、琉球古典音楽を極め、今では師範として多くの門下生を世に送り出している。ジャズも続けた。1957年に発足した沖縄音楽家協会(現沖縄JAZZ協)は復帰後しばらくは休眠状態だったが、86年に再発足。昌栄たちジャズの演奏家は沖縄ジャズの普及促進と後進育成に取り組んだ。昌栄自身も沖縄JAZZ協の会長を歴任し、現在は名誉会長のほか、那覇市文化協会ジャズ部会長として汗をかく。

琉球古典音楽の曲を独唱する上原昌栄さん=2006年2月(本人提供)

 2010年にこの世を去った屋良が開いたライブハウス「ライブイン寓話(ぐうわ)」に足しげく通い、ドラムを演奏している。コロナ禍前の20年2月に開催した「沖縄ジャズジャイアンツに捧(ささ)ぐ」では80代のドラマーとは思えないほど、パワフルなビートを刻み、客席から感嘆の声が上がった。

 最近では若手のジャズシンガーや演奏家とコラボする機会も多く、「新しい世代にまで沖縄ジャズが広がりつつある」と喜ぶ。「ジャズに民謡や古典を取り入れるなど、新しい沖縄のジャズを生み出すことができた。うちなーんちゅだけでなく、県外のファンも増えた。日本に復帰したことで、苦しいこともあったが、良いこともたくさんある」と笑顔で話す。

 3月14~17日には6月リリース予定の沖縄ジャズの演奏家が一堂に集結したアルバムのレコーディングに参加した。昌栄は「私の人生は音楽なしでは生きられなかった。生涯、音楽を続けていきたい」とドラムのスティックを握り続ける日々を送っている。

(金城実倫)