前原高校の管理棟の玄関に、拳を握り、地にうずくまる男性の像がある。作品名は「苦悩する青年」。作者は彫刻家の金城実(83)、12期である。金城自身、苦悩する青年期を送った。
1939年、浜比嘉島の生まれ。生まれたばかりの息子を残し、父は志願兵となった。はがきで「実を立派な日本人として教育してくれ」という願いを母に託し、ブーゲンビル島で戦死した。母はその願いに沿うよう息子を厳しくしつけた。
「今でいう『教育ママ』。戦前の教科書を持ち出して僕に読ませた。うまく読めずにいると、怒った母はリンゴ箱で作った机をむちでたたいた」
金城は緊張のあまり口ごもるようになり、勉強も嫌いになった。
島を離れ、前原高校に入学。トタン屋根の寮で暮らした。勉強嫌いは相変わらずだった。英語、日本史、体育の3単位を落とし、追試を受けた。「勉強する気がなかった、全然」
気になる教師がいた。平安名栄清である。軍隊帰りで、自分のことを「本官」と名乗った。
「テストの後、『実、でかした。家で焼いて食べなさい』と言って、点数の悪い答案用紙を返してくれた。赤点をもらい、うなだれる生徒にも『おい、頭を上げろ』と声を掛け、励ました。先生は落第生を出さなかった」
平安名は人気のある教師だった。優等生よりも勉強が苦手な生徒をかわいがった。忠誠を誓ったはずの国に裏切られ、軍隊で辛酸(しんさん)をなめた教師の姿に、金城は戦争の深い傷を見た。
卒業後、島で農業をしていたが、国費で医学部に進んだ同級生に感化され大学を目指す。浪人生活を経て京都外国語大学に進学し、大阪で教職に就いた。
浪人中、東京で見たロダンの彫刻作品が忘れられず、独学で彫刻を学ぶようになる。公衆浴場で客のはだかを見て骨格や肉付きを目に焼き付け、創作に生かした。
「誇りある琉球人」を自認する金城は「立派な日本人」となることを息子に求めた父の死を見つめる。戦争犠牲、差別を問い、沖縄の民衆を彫ってきた。その作品は人間の尊厳を刻んでいる。
沖縄県弁護士会長、九州弁護士会連合会理事長、県人事委員会委員長などを歴任した弁護士の宮國英男(65)は30期。多感な高校時代、沖縄の世替わりを体験した。「今思えば、この時の体験が今の自分につながっている」
1957年、具志川市(現うるま市)前原で生まれた。前原高校入学は72年。この年、沖縄の施政権が返還された。
「アメリカの属国ではなく日本人として振る舞うことができる。アメリカの顔色をうかがわなくてもいいと思った」と宮國は語る。期待と共に「5・15」を迎えた。穴の開いた5円硬貨、50円硬貨にもヤマト世の到来を実感した。
「若夏国体や海洋博の開催が決まっていた。これから新しい出来事が起きる。どういう時代が来るのか、楽しみにしていた」
宮國は1年生の頃から生徒会役員となり、髪型や服装に関する校則の撤廃を訴えたこともあった。剣道部の一員としても活躍した。
この時代、金武湾埋め立てによる石油備蓄基地(CTS)建設計画を巡って地域が揺れていた。宮國のクラスメートに建設反対運動の中心メンバーの息子がいた。復帰後、沖縄の環境問題が厳しくとわれるようになった。
「CTSは新聞でも報じられ、生徒の間でも『開発か、自然破壊か』が議論となった。その後の自分の行動にも影響したと思う」
卒業後、琉球大学に入学し、弁護士を目指す。「不条理と闘う人の味方になりたかった」と宮國は振り返る。弁護士となって35年余、さまざまな事件を担当してきた。米軍機騒音訴訟や辺野古新基地建設問題にも関わる中で、沖縄の不条理を見つめている。
2010年から7年間、琉球大学で法律を教えたこともある。「楽しかった。たくさんの教え子がいる」と宮國。教え子から弁護士も生まれたという。
(文中敬称略)
(編集委員・小那覇安剛)
【前原高校】
1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
80年 定時制が閉課程
96年 夏の甲子園に2度目の出場