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バレーに打ち込んだ民謡歌手、テニス漬けの琉球語研究者 我如古より子さん、狩俣繁久さん 前原高校(10)<セピア色の春―高校人国記>


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1970年代の前原高校の正門(卒業アルバムより)

 復帰を挟む激動期、前原高校のバレーボール部に民謡歌手の我如古より子(67)がいた。既にステージにも立っていたが、高校ではバレーに熱中した。

我如古 より子氏

 1955年、戦後の琉球民謡の普及を引っ張った歌手、我如古盛栄の次女として生まれた。父や三線を弾く姉と共に10歳からステージに。「でいご娘」や「屋良ファミリーズ」などのファミリーユニットが活躍した時期だった。

 幼い頃からテレビ番組「兼高かおる世界の旅」に憧れ英語を勉強したかったが「女はソロバンさえできればいい」と言う頑固な父に反対され、父の勧める前原高校に進学した。葛藤を抱えた高校生活の中で「バレーは唯一、何も考えずに打ち込めた」と語る。

 バレーは兄の影響で中学校で始めた。高校では、中学でソフトボールをしていたいとこを誘って入部した。背の高い彼女はエース(アタッカー)になり、我如古はセッターを務めた。

 ある日、披露宴の余興に出演するため、いとこと共に「用事があります」と言って練習を休んだ。会場に着くと顧問の教師と鉢合わせになった。「先生は司会を頼まれていた。『エースとセッターがここにいたか』と驚かれた。卒業後も先生に会うたびに笑い話になった」と振り返る。

 本格的に歌い始めたのは74年に父が民謡スナック「姫」を沖縄市に開いてから。77年に盛栄が作った「女工節」でデビュー、透き通るような歌声が評判に。78年に普久原恒勇が作曲した「娘ジントーヨー」が大ヒット。88年には坂本龍一と共演するなど、さまざまなアーティストと活動を共にした。現在は国際通りでレストランと民謡酒場を営み、幅広く活動する。

 「高校ではひたすらボールを追って楽しかった。セッターとして相手の動きを見てフェイントを掛け、トスを上げた。今はステージでお客さまの表情を見て曲を変え、状況に合わせて歌う。バレーの経験が音楽にも生きている」と語る。

狩俣 繁久氏

 同時期に在学していたのは琉球語研究者の狩俣繁久(67)だ。高校時代は軟式テニスに没頭した。

 54年、石川市(現うるま市)生まれ。安慶名中学校から前原高校に進んだ。校舎の近くには米軍の天願通信所など多くの基地があった。「ススキの原野にフェンスが張り巡らされていた」と振り返る。

 72年5月15日の復帰の日は友人と那覇市の与儀公園に出掛け、デモ行進に参加した。「雨が降って大変だったが、広場にたくさんの人が来ていた。僕のようなノンポリでも参加するぐらい当時は皆、関心を持っていた」と語る。

 軟式テニスは中学時代に中頭地区大会で優勝したこともある。高校でも3年間打ち込んだ。「朝から晩までほとんど毎日練習していた。大学に行くとは夢にも思わなかった」。2年の担任に「どうするか」と聞かれ、進学を考え始めた。

 「最初はテニスを続けたい思いで行こうと思った」が、1浪して琉球大学へ進むと転機が訪れた。沖縄言語研究センター初代代表の仲宗根政善と出会い、言語研究の道へ。「出身地や方言を話せるか聞かれ、親が宮古島なので『話せはしないけど聞けます』と答えた。先生に『貴重な存在だ』と言われたことが決定的だった」と振り返る。

 狩俣が中学3年の国語の時間に書いた詩がある。

 〈金網のむこうに小さな春を/つくってるタンポポ/金網のそとにも小さな春を/つくってるタンポポ〉〈金網のない平和な緑の沖縄に/みんなのねがいをこめてさかせてやりたい〉

 復帰を前にしたコンクールで選ばれ、沖縄と本土の子どもたちの作品集の巻頭に載った。その後、曲が付けられた。「金網のない沖縄は県民にとって永遠の願いだ。復帰50年を迎えるが、この詩はまだ生きていると思う」と語る。

(文中敬称略)
(中部報道グループ・宮城隆尋)


 

 【前原高校】

 1945年11月 開校。高江洲初等学校校舎で授業を開始
 46年3月 与那城村(現うるま市)西原に移転(現与勝中学校)
 58年6月 具志川市(現うるま市)田場の現在地に移転
 73年3月 春の甲子園に出場。夏の甲子園にも出場(8月)
    5月 若夏国体で女子ソフトボール、男子バレーボールが準優勝
 80年 定時制が閉課程
 96年 夏の甲子園に2度目の出場