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ヤジと民主主義 守られた表現の自由 権利保護に先行き不安<山田健太のメディア時評>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
「表現の不自由展 東京2022」の会場風景。写真奥に座っているのは見守り弁護士

 東京・国立市で「表現の不自由展 東京2022」が、混乱なく予定通り開催された。19年に愛知県で行われた国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」展内での企画展で、抗議が相次ぎ中止・条件付き再開という経過をたどった、「表現の不自由展・その後」の一部を再展示するなどした内容だ。当初は21年6月、新宿で行う予定が街宣活動によって会場を変更、しかしここでも貸し出し辞退があり延期されていたものだ。

 同様の企画展が昨年、大阪の公共施設で実施できたことが考慮されたのか、今回の東京開催も自治体公共施設を利用するものであった。タイトルにあるように、博物館・美術館等での展示が拒否されたり変更を余儀なくされたりした作品を通じて、表現の自由を考える企画であるが、抗議の矛先は専ら「反日展示会をやめろ」というメッセージに象徴されるように、作品の表象的な意味合いに対するものであると理解できそうだ。
 

一体性と反日感情

 昨21年夏以降いまに至るまで、報道で「国旗」を目にする機会が極めて多い。オリンピックとその後のロシア・ウクライナ戦争がその主たる要因だが、それはナショナリズムを鼓舞するものであり、いまでいえば「主権と領土の一体性」を誇示する意味を持つであろう。外交上の決まり文句の一つであるが、さらに「国家的統一」という文言が入る場合もある。

 その折にとりわけ感情的に入り込みやすい、他国を打ち負かす、あるいは他者を排斥するといった風潮とともに、自国内においては異論を排し一丸となることを求めることになりがちだ。ロシア国内での報道や集会への厳しい規制は、まさにその一端だろう。ここまで考えると、前述の「反日」とのつながりがみえてくる。

 さらにその一体性を強く求める空気感は、昨今の事件からみるとより広範に、しかも社会の一般ルール化する可能性すらあるほどに広がってもいる。たとえば、首相の街頭演説をヤジる行為は演説妨害行為であるとして制限される事件が起きたのは、19年7月の札幌だった。過剰警護という言い方ではすまない、高圧的な言論妨害であるし、それを周囲が傍観する状況もまた、規制を社会全体で正当化することにつながりがちだ。

 報じる側のメディア内部でも、東京五輪反対デモ参加者に対して、日当をもらって参加しているとの表現を捏造(ねつぞう)する事件も起きた。これは21年のNHKの話だが、似た事例は民放で高江・辺野古の抗議活動参加者に対しても行われた過去がある。これらは、偏見に基づくものであるか、貶(おとし)めるための確信犯かは別としても、「国策」に反するものを排除しようとする意識では、根は同じであると思われる。
 

司法判断示すもの

 こうした流れを、いま司法がギリギリのところで踏みとどまらせている事実が興味深い。表現の自由が争われる事案に関しても司法は、総論賛成・各論反対といわれるように、一般論としては表現の自由の保障を謳(うた)いつつも、具体的事例では救い切れていない場合が多いともいえる。しかし、3月25日の札幌地裁(廣瀬孝裁判長)では「とりわけ公共的、政治的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利」との先例を引き、当該ヤジがこれらに該当し、憲法で保障された表現の自由が「警察官らによって侵害された」と明確に違憲違法を判断し、警察に対する損害賠償を認めた。

 また先にも触れたとおり、大阪府施設における不自由展の開催について、指定管理者が「混乱を防げない」との理由から、いったん認めた利用許可を撤回したことにつき裁判所は、安全に配慮しているのに、実力で阻もうととする人がいるからといって公共施設の利用を拒むことは表現の自由の侵害であるとした。いわば、集会やヤジといった大衆表現について、それが公共的なスペースでなされる場合において、警察を含む行政の幅広な裁量権を戒める姿勢を示しているといえる。

 同じように行政の恣意(しい)的な判断を否定したものとしては、9条俳句訴訟が最近の事例としてはよく知られている。市公民館が発行する広報誌に、館側の一方的判断で通常は定型的に掲載していた俳句の不掲載を、内容を理由として決めたものだ。これに対しても、裁判所は住民側に軍配を上げた。ただしこれが、いつでもどこでも適用されるかは心もとない面が残る。
 

行政判断の危うさ

 もう一度ヤジ訴訟に戻ると、警察側は現場で事実上拘束した根拠を、危害回避のため避難等の措置や、予防のために行為を制止することができると定めている警察官職務執行法4、5条に基づくものと説明した。今回は現場で撮影された動画が証拠として提出され、警察対応がいわば「度を越している」と裁判所が判断した格好だが、根拠法自体が否定されたわけではない。

 沖縄県内では、今回の事例同様に警職法2条(職質・追従行為)と警察法2条(責務)の規定に基づくものとして、高江・辺野古の抗議活動をめぐって、当初から警察による「過剰」な取り締まりが続いてる現状がある。あるいは、米軍が返還地に放置した物を基地ゲート前に置く行為については、抗議活動の一つのかたちであって、いわば象徴的言論としての側面がある。しかしこうした表現行為に対する理解は、かつての沖縄国体における日の丸毀損事件でもそうであったが、裁判所には一貫してみられない。

 もう一つの懸念点は、ヤジを「呼び捨てにするなど、いささか上品さに欠けるきらいはある」と指摘し、度合いによっては認められないヤジ行為があることを許容しているように読める点だ。一般労働争議事件でも、雇用主に対する解雇撤回を求める抗議活動などで、名誉毀損に問われる事例が少なくない。いわば、どうしても厳しい言い方になりがちな、こうしたショートメッセージは、それだけ取り出すと一般的な言動に比べ、厳しい言い方になるものだ。

 それを上品かどうかで判断することは極めて危険であるとともに、今国会で提案されているように侮辱罪が厳罰化することで、刑事告発される可能性は高まるだろう。しかも名誉毀損罪のような公共性・公益性などを理由として罪に問わないという免責要件規定が設定されていない。いまでさえ恫喝(どうかつ)的訴訟が提起される状況がありがちななかで、より一層政治家などからの訴訟リスクが上がることにならないだろうか。ヤジと侮辱と民主主義は一直線でつながっている。

 (専修大学教授・言論法)


 本連載の過去記事は本紙ウェブサイトや『愚かな風』『見張塔からずっと』(いずれも田畑書店)で読めます。