琉球の入れ墨「ハジチ」復興、自らの手で うちなー女性の誇り刻む


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 かつて禁止令が出され「悪風汚俗」とまで言われた琉球の入れ墨「ハジチ」だが、今の若者が身にまとえば日常風景にも意外と溶け込む。父親が那覇市出身の平敷萌子さん(29)=東京都=はハジチを施すハジチャーとして、東京を中心に活動する。最近は県内からも仕事の依頼があり“逆輸入”で活躍の場を広げる。「自分のルーツ、沖縄につながる形のあるものだと思う。残していきたい」。消滅したとされるハジチを復興させようとの思いを、その手に刻む。

自らも両手にハジチを彫りハジチャーとして活動する平敷萌子さん=3月、那覇市内

 「沖縄っぽい」「ハーフ?」。栃木県宇都宮市で生まれ育った平敷さんは幼い頃からそう言われてきた。なじみの薄い名字や見た目だったのか、自分の意思とは関係なく、むしろ周囲の言動から「うちなーんちゅ」であることを強く意識させられたという。

 そんな平敷さんがハジチと出合ったのは多摩美術大学絵画学科油画専攻を卒業し、大学院に通っていた24歳のころだ。「沖縄に関するタトゥーを入れたい」と画像共有サービスを検索してみると、ハジチの画像が出てきた。入り口はありふれたものだったが、自分の存在につながるハジチを「入れたい」との思いが募り、どんどん惹かれていった。

 1年ほど過ぎた頃、カルチャー雑誌「STUDIO VOICE」でハジチ特集を見つけると、施術者の名前が記載されていた。それは、民族的な入れ墨「トライバルタトゥー」を手がける大島托さんだった。すぐに店舗を訪ね、右の手首にハジチを入れてもらった。その文様は「いちちぶし(五つ星)」と言われるもので、死後に「極楽に行ける」などの意味が込められている。

久高島の老女のハジチ(当時88歳)=1972年12月3日(山城博明さん撮影)

 直接会ったことはないが、曾祖母もハジチを入れていたという。うちなーぐちしか話せず、キセルをふかしていたと父に教えてもらった。厳しくも、優しかったという曾祖母に憧れる平敷さん。「うちなー女性としてかっこいいと感じた」。初めてのハジチが彫られた右手を誇らしげに見つめた。

(つづく)

(仲村良太)


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