【評伝・照屋寛徳さん】護憲と平和を論じたウチナー政治家 沖縄の指標、示し続けた


社会
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復帰44年に合わせ開催された「5・15平和と暮らしを守る県民大会」で激励のあいあさつをする照屋寛徳さん=2016年05月、那覇市の新都心公園

 行動し、抗(あらが)う政治家であり、弁護士であった。民意をないがしろにする国を追及する姿勢が県民の支持と共感を集めてきた。照屋寛徳氏の訃報に時代の変わり目を感じる。自らの戦争体験を基に護憲と平和を論じ、沖縄の指標を示してきたウチナー政治家がまた一人、この世を去ったのだ。

 1945年7月、サイパンの捕虜収容所で生まれた。自らの出自を「捕虜が捕虜を生んだ」と著書で記した。その上で沖縄戦の最中に住民の避難場所となった墓の中で生まれた同級生の存在に驚き「死んでから入るお墓の中で生命が誕生した、という事実の意味は重い」と指摘した。

 「戦場(いくさば)の童(わらべ)」だった照屋氏は米統治下にあって沖縄の現状と未来を見つめた。前原高校では生徒会長となり復帰運動に熱中した。同級生を傷つけた米軍事件・事故に沖縄の不条理を実感した。

 照屋氏は日米両国の狭間で呻吟(しんぎん)する沖縄の苦悩を見つめ、国会の場で安保・日米地位協定の矛盾を厳しく批判してきた。国に立ち向かう照屋氏の武器は法律であり言葉であった。沖縄の人権侵害を見逃さず、法的根拠に基づき、鋭い舌鋒(ぜっぽう)で国の不作為をあぶり出した。

 行動する論客政治家の迫力を実感したことがある。96年4月1日、国の使用権原が切れた読谷村・楚辺通信施設の立ち入りを求めた時のことである。小雨の中、ゲート前に押しかけた市民の先頭で、照屋氏は携帯電話で防衛施設庁の幹部を呼び出し、皆に聞こえるような大きな声で抗議し、論争を挑んだ。法律と言葉で闘う照屋氏の面目躍如であった。

 一般県民に対しては穏やかな態度で接した。しまくとぅばが上手な庶民政治家の顔である。コラムも書き、平易な文章で不戦と護憲を説いてきた。2005年に脳梗塞(のうこうそく)を患ったが、その後も国と対峙(たいじ)する姿勢を貫いた。

 照屋氏は著書「ウチナーンチュときどき日本人」でウチナーンチュの自立を論じながら「ヤマト(政府)の都合で日本人になったり、ウチナーンチュになったりするのはごめん」と言い切る。強烈な沖縄アイデンティティーの表明であり、国策に翻弄(ほんろう)される沖縄の怒りを示したものだ。

 来月、「復帰50年」の日を迎える。ヤマト世を50年生きたウチナーンチュはどのような思いで節目の日を迎えればよいのか。ウチナー政治家であり続けた照屋氏の言葉をじかに聞くことはできない。そのことが残念でならない。

(中部支社長、編集委員・小那覇安剛)