沖縄切り離し…本土から米海兵隊移転、土地は強制的に奪われ基地建設 押しつけへの「抵抗」今も<対日講話条約70年>


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 1952年4月のサンフランシスコ講和条約(対日講和条約)によって、日本は独立国として主権を回復したが、沖縄は日本から分断され、米国の施政下に置かれた。米統治下の強制的な土地接収によって県内の米軍基地は拡大を続け、沖縄には現在も在日米軍専用施設の約7割に上る広大な基地が集中している。復帰運動で基地の撤去を求めた県民の願いはかなわず、基地問題などを巡り日米両政府に対する沖縄の「抵抗」は、今なお連綿と続いている。
 (池田哲平、塚崎昇平)

 米軍は沖縄戦で上陸直後に「ニミッツ布告」を宣言し、沖縄での日本政府による行政権停止や軍政府設立を通告した。通告に基づき、軍政府諮問機関として1945年8月に、戦後初の行政機構「沖縄諮詢会」が発足。その後、沖縄民政府、琉球群島政府、琉球臨時中央政府へと改編された。

 52年には司法、立法、行政の3機関を持ち、各郡島を統括した琉球政府が誕生したが、権限は「(米国)民政府の布告等に抵触しない範囲」と大きく制限された。

 米民政府は53年、強制的に土地を接収する「土地収用令」を公布、54年にアイゼンハワー米大統領が沖縄の無期限保有を宣言し、統治を強めた。こうした中で、50年代後半には日本本土の海兵隊部隊が沖縄へと移駐、米兵による幼女暴行殺人事件や宮森小学校へのジェット機墜落など悲惨な事件事故が多発した。

 米国による圧制に対し住民らの不満はうっ積し、日本復帰に向けた機運は一気に高まり、立法院は62年に施政権の要求を決議する。69年、佐藤栄作首相とニクソン米大統領によって72年の沖縄返還が合意したが、基地のない平和な沖縄を求める願いが届くことはなかった。初の主席公選で選ばれた屋良朝苗氏は71年11月16日、基地撤去と自衛隊の沖縄配備反対を明記した「復帰措置に関する建議書」(屋良建議書)を国会に提出するために上京したが、衆院沖縄返還協定特別委員会が強行採決で終了し、委員会に提出できなかった。

 復帰後も米軍基地に起因した事件事故が県政に重くのしかかった。95年の米兵による少女暴行事件を契機に、当時の大田昌秀知事は未契約軍用地の強制使用手続きに関する代理署名を拒否。基地縮小や日米地位協定の見直しを求める県民の声は、全島へと波及した。

 日米両政府は96年4月に普天間飛行場の全面返還で合意したが、県内移設が条件となったことで迷走することになる。現在、県内移設に反対する玉城デニー県政の下で、日米両政府は同飛行場の移設に伴う名護市辺野古新基地建設を強行する。日米による基地の押しつけに対し、沖縄側の異議申し立ては続いている。