「基地のない沖縄」求めた思い今も 復帰50年、各世代が屋良建議書の意義を議論


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沖縄の日本復帰に合わせ、琉球政府が日本政府に提出した建議書の作成経緯を学ぶ参加者ら=30日、那覇市の八汐荘

 沖縄の日本復帰を前にした1971年、琉球政府の屋良朝苗主席(当時)が日本政府に申し入れた「復帰措置に関する建議書」(屋良建議書)に関するトークイベント「建議書は生きている」(屋良建議書を学ぶ会、ふーちばー企画主催)が30日、那覇市の八汐荘で開かれた。当時の琉球政府職員や戦後史の研究者が「基地のない平和な沖縄」を求めた建議書提出に至る経緯と背景を説明した。これを受け、各世代の参加者らが意見を交わした。

 参加者からは「復帰は喜ばしいことだと感じていたが、沖縄側の視点に立つと実はそうではなく、沖縄の声は届いていなかったんだと分かった」「今大事なことは沖縄県民自身がどういう沖縄にしたいのか考えることだ。一人一人が問われている。自分たちのことは自分たちで決め、行動することが大事だ」などと意見が上がった。

 琉球政府の職員だった平良亀之助氏は、沖縄の人々は「核抜き、本土並み」の復帰を望んだが、日米両政府は基地を置き続けるために情報を積極的に提供しないで手続きを進めたと指摘した。「核抜き本土並みではなかったのかと疑心暗鬼が広がり、急きょ建議書作成が進んだ」と述べた。

 沖縄国際大の秋山道宏准教授は、1960年代のベトナム戦争の激化を受け、嘉手納基地でB52墜落事故などが起きたことを紹介。「建議書に『基地のない平和な沖縄』を盛り込んだのは戦争が生活に入り込んできたからだ。現代でも戦地と結びついている状況は続いている。この理念は今も生きている」と話した。

(梅田正覚)