69年ゼネスト回避は「妥協の産物」 復帰後も残る米軍基地、割り切れない思い今も<復帰50年夢と現実>3


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 沖縄に配備されたB52の墜落事故をきっかけにB52撤去を求めるゼネストが計画された。決行か回避か―。1969年1月、元社大党委員長の仲本安一さん(86)は沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)の執行委員として、琉球政府立法院前の事務所に詰めて連絡を待った。琉球政府幹部と協議していた、ゼネストを主導する「生命を守る県民共闘会議」で、県労協の亀甲康吉議長と副議長の全軍労の上原康助委員長(当時)が戻ってきて伝えた。「ゼネストは回避する」。

ゼネスト回避を伝える琉球新報の紙面(1969年2月1日付夕刊)

 直前の68年、主席公選で当選した屋良朝苗氏を追い込むことは避けたいというのが与党の考えでもあった。屋良氏はゼネスト6日前に上京し、佐藤栄作首相と面談しB52撤去を直接要請。しかし、首相は撤去の時期について明言を避けた。復帰が遅れることを懸念した屋良主席は共闘会議に回避を要請したとされる。仲本さんは「屋良さんの性格なら、ゼネストを実施すれば退陣することもあり得ると考えていた。それは避けたかった」と明かす。

 仲本さんら復帰協幹部は「残念だが仕方ない」と受け止めた。「いわゆる大人同士の政治決着、“妥協の産物”で中止した訳だから、下部労組の組合員は『日本政府の圧力に屈するな』『だら幹(だらしない幹部)だ』と、もう相当の突き上げだった」

 ゼネスト中止に至る流れは、「基地撤去」の沖縄の世論を一層高めた。復帰協は「運動の目標」を、「軍事基地撤去」「日米安保条約の破棄」まで踏み込んで打ち出す。沖縄の基地を維持する日米返還協定の破棄と交渉のやり直しを掲げて71年5月、11月と2度のゼネストを実施。それは復帰運動の中核を担ってきた屋良氏と支持母体との間には深刻な溝を生じさせることでもあった。

「復帰の中身を勝ち取るのは君たちの大切な責務だ」と屋良朝苗氏から託された石川元平さん

 主席公選まで屋良氏の秘書を務めた元沖教組委員長の石川元平さん(84)はその苦悩を間近で見ていた。迎えた復帰の日。仲本さんは「米の異民族支配を脱却した多少の喜びはあるが、基地は残る。複雑な心境だった」と振り返る。石川さんも「ただ無念の思いだった」と吐露する。

 日本復帰によって政党や団体の系列化や分裂は一層進んだ。77年に復帰協は解散。石川さんは「沖縄県祖国復帰運動闘争史」の発刊を目指したが、かなわなかった理由にそうした影響も挙げる。「復帰運動の本当の意味での総括はできなかった」

「復帰はただの自己満足だったかもしれない」と自問自答する仲本安一さん

 復帰から時間がたつにつれ、仲本さんの喜びは疑問へと変わった。「あの時は胸を張って良いことをしたと思っていたが、沖縄県民になるのが正しかったのか、自信を持てなくなった。今考えると、日本は祖国ではなく、他国だ。復帰運動はただの自己満足だったのかもしれない」

 ゼネスト中止は、屋良氏の複雑な立場を「如実に示した」とも考えている。「われわれが抗議したかったのは日本政府。もし中止せず屋良さんがゼネストの先頭に立ってくれれば。それができなくても黙認してくれていれば」―。割り切れない感情は今もうずく。

(中村万里子)


用語 2・4ゼネスト

 社大、人民、社会の3党と復帰協、県労協、全沖労連、教職員会などが結成した「生命を守る県民共闘会議」が1969年2月4日に決行する予定だった。68年11月19日未明、嘉手納基地から離陸しようとしたB52戦略爆撃機の墜落、爆発炎上。B52撤去、原子力潜水艦寄港阻止、核兵器の撤去を求める機運が高まった。その後、屋良主席は政府首脳からB52の国外移設の感触を得たとしてゼネスト回避の要請を決めた。