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71年、青年ら国会内で爆竹をさく裂させ抗議 沖縄、自立への闘い今も <復帰50年夢と現実>4


この記事を書いた人 Avatar photo 知念 征尚
「国会爆竹事件」を伝える1971年10月20日付の琉球新報朝刊

 「返還協定粉砕」―。1971年10月19日、佐藤栄作首相が所信表明演説中の衆院本会議場で、傍聴席から爆竹がさく裂した。首相が沖縄返還について「これまでの歴史にない最も好ましい解決を見た」と誇った直後だ。議場にまかれたビラは「全ての在日沖縄人は団結して決起せよ」と沖縄の人たちの自立を促した。復帰後も米軍基地が沖縄に残ることに対し、協定の批准が争点となった国会の冒頭で抗議の意志を示した。

 実行したのは沖縄出身者でつくる「沖縄青年同盟」の3人。宮古島出身の本村紀夫さん(73)は自ら決起に加わった。「ヤマト志向の政治は今も続いている。あの時提起した沖縄の自立を巡る問題は、今も変わらない」と意義を語った。

 本村さんは進学のため68年に上京した。そこで感じたのは沖縄への認識の浅さだ。講和条約発効後も米統治が続き「ヤマトの犠牲になった」沖縄の実態を、当のヤマトが感じていない。東京で暮らす中で「ヤマトとは違う」と違和感を抱いた。

 この頃、沖縄出身者でつくる組織は沖縄学生闘争委員会(67年)や沖縄青年委員会(70年)など、組織が見直されるたびに独自色を強めた。71年の国会爆竹事件直前に結成した沖縄青年同盟は、日本人とは違うという意味を込め、自らを「沖縄人」と呼んだ。「沖縄人民権力の樹立」と、沖縄の独立を示唆するスローガンも掲げた。

国会爆竹事件で提起した「沖縄の自立の重要性は今も変わらない」と語る本村紀夫さん=6日、宜野湾市

 日本の一部に組み込まれる復帰運動とは一線を画した。沖縄の自立を志向した議論が、日本で暮らす沖縄出身青年の間で活発に行われた。本村さんらは、薩摩藩による侵略や明治政府による併合といった沖縄の歴史を学び「自分たちは沖縄人」との意識を強めた。「(親たる日本のもとに)足蹴(あしげ)にされても復帰すると言った人もいたが、本当の親はそういうことはしない」と疑問が募った。

 69年の佐藤・ニクソン会談で、返還後も米軍基地は沖縄に残ることが明らかになり、疑問は現実のものとなった。ゼネストが決行されるなど沖縄世論は動揺した。本村さんはこの会談結果で「復帰は間違いだとはっきりした」。それでも復帰の流れが止まらなかったことに「(世論は)日本復帰後に基地問題をみんなで考え、解決するという方向にいってしまった」ともどかしさをのぞかせた。

 その後の裁判で3人は沖縄島、宮古島、石垣島それぞれの出身地の言葉で臨んだ。日本語で話すよう強く求める裁判長と対立しながらも、沖縄と日本の違いを浮き彫りにした。

 当時抱いた基地集中の継続などの懸念は、今も沖縄の課題として横たわり続ける。背景には復帰後に進んだ日本への「政治的系列化」があるとみる。基地問題などで「抗議行動をしても政府には聞き入れられない現状に目を向けるべきだ」と訴える。

 本村さんは12年前に沖縄に戻った後、琉球民族独立総合研究学会や「命どぅ宝!琉球の自己決定権の会」といった団体の設立に携わった。「沖縄の人が沖縄のことをしっかり考えれば、沖縄は変わる」。国会爆竹事件から50年たった今も、沖縄の自立を追い求めている。

(知念征尚)