「耐えようにも耐えられない」復帰50年も変わらぬ米軍機の爆音 静かな夜求め続く訴訟<復帰50年夢と現実>5


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
嘉手納爆音訴訟のこれまでの闘いを振り返る新川秀清さん(左)と福地義広さん=那覇市の八汐荘

 8歳で体験した沖縄戦は、ありったけの地獄に放り込まれたようだった。「戦世をくぐり抜けて、平和憲法の下に帰るという望みがあった。ウチナーンチュも人間として当たり前に扱われるような時代でなければならない」。4月30日、日本復帰50年に合わせて開かれたオンラインの「県民大会」で、第4次嘉手納爆音訴訟原告団長の新川秀清さん(85)=沖縄市=が訴えかけた。

 1937年、旧越来村仲原生まれ。沖縄戦時は父が防衛隊に召集され、母ときょうだいと逃げ惑った。米軍の銃撃に遭い、身を潜めていた墓では2人が命を落とした。米軍に捕えられ、宜野座村福山の収容所に送られた。

 米軍は日本軍が建設した軍事基地を次々と占領し、拡張していった。新川さんのかつての自宅と隠れていた墓があった場所は、現在は嘉手納基地の中だ。終戦直後は日本本土にも多数存在した米軍基地は、反基地運動の高まりなどにより、沖縄に移駐された。

 米統治下、「基地の街」コザ市は米軍関係者による事件事故が後を絶たなかった。基地のない島を願って復帰したが、期待は裏切られた。「27年間の米統治に、復帰してさらにヤマトがかぶさってきて、沖縄に基地を押し付け続けている」

 日本復帰10年の1982年2月。米軍嘉手納基地周辺住民が「にじてぃにじららん(耐えようにも耐えられない)」と、米軍機の夜間・早朝の飛行差し止めなどを求める訴訟を那覇地裁沖縄支部に提起した。

普天間飛行場近くを飛ぶオスプレイを指差し「いつまで基地を沖縄に押し付けるのか」と話す新垣清涼さん=宜野湾市喜友名

 嘉手納爆音の1次提訴から20年後の2002年、普天間飛行場の周辺住民も立ち上がる。1次から原告として闘ってきた、第3次普天間爆音訴訟の訴訟団長を務める新垣清涼さん(72)は、宜野湾市喜友名出身。幼少期は、今ほど頻繁に米軍機が飛んでいなかったと思い返す。81年に北谷町のハンビー飛行場が返還され、部隊が移ってきて以降、騒音がひどくなっていったと感じる。

 「こんなにうるさいのに、黙っておくわけにはいかない」と、2次訴訟係争中だった嘉手納の原告団に相談し、提訴に向けて動いた。国を相手の裁判に躊躇(ちゅうちょ)する住民も多かった。公民館で説明会を開くなどし、02年に1次訴訟を起こした。

 嘉手納も普天間も、爆音の違法性は認められている。ただ、過去分の賠償しか認められず、住民は裁判を繰り返し起こさざるを得ない。嘉手納は4次訴訟が、普天間は3次訴訟が、それぞれ係争中だ。さらに飛行差し止めの願いは、米軍施設の運用は日本の法の支配が及ばないとした「第三者行為論」で退けられている。新垣さんは「復帰から50年たっても基地被害は変わらず、爆音はむしろひどくなっている」と憤る。

 新たな動きもある。第4次嘉手納と第3次普天間の原告の一部が、今月16日に合同で行政訴訟を那覇地裁に提起する。米軍機の飛行差し止めを米国に求める地位にあることの確認などを国に求める予定だ。次世代のためにも静かな夜を取り戻したいという新川さんは「5月15日に近い日に連携して提訴するのは意義がある。全国の爆音訴訟の新たな1ページにつなげていきたい」と前を見据えた。

(前森智香子)