琉米親善やNBA放送…沖縄のバスケット文化、「本場」の影響は米軍から <沖縄とバスケの50年>上


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沖縄県の米軍基地内で行われたバスケットボール大会に初参加した琉球大の選手ら=1960年11月

 15日に日本復帰50年を迎える沖縄県では、バスケットボールが人気スポーツの一つだ。近年はBリーグで琉球ゴールデンキングスが屈指の観客動員を誇り、フィリピンなどと共催する来年の男子ワールドカップ(W杯)の試合が日本で唯一、沖縄市で行われる。独自の発展を遂げた沖縄のバスケット文化に迫った。

 「(軍の駐留で)米国の人たちが住んでいた現実がある。そのバスケット文化が沖縄にしみ出してきた歴史がある」。Bリーグ琉球の元取締役で地元財界の一員としてチームを支えた白石武博さん(59)は、そう話す。沖縄は米軍基地を通じ、競技の「本場」の影響を強く受けてきた。

 1972年の日本復帰の頃、既にバスケットは身近なスポーツだった。沖縄県協会の日越延利専務理事(65)によれば「米軍からボールの提供を受けた」。各地の公民館には、ガジュマルの木の柱に鉄の廃材をくくりつけるなどした簡易なリングが作られ、そのボールで子どもたちが遊んだ。

 体育館など施設の整備は遅れていたが熱意ある指導者も多く、競技は盛んだった。レベル向上に一役買ったのが、高校生や大学生が招待されて基地内の米国人と対戦する試合。地元高校生との「琉米親善」は54年に全国高校総体に出場したコザ高が嘉手納基地内に招かれたのが始まりとされ、日本復帰後も交流が続いた。興南高の86年全国高校選抜優勝大会準優勝や、沖縄代表での87年国体少年の部優勝を経験した伊佐勉さん(52)=現Bリーグ・サンロッカーズ渋谷監督=は「(米国人は)身体能力も違うし、手足も長い。大きな経験だった」と振り返る。

 宮古島でも競技を通じ米軍基地との交流があった。地元協会会長として普及に務めた仲田繁市さん(88)と笠原渥さん(69)は「米国の影響は大きい」と声をそろえた。

 テレビでは基地向けの米国の番組が映る「6チャンネル」があり、米プロリーグNBAの放送を見た子どもたちは世界最高峰のプレーをまねた。こうした沖縄独特の土壌から、個人技に優れる選手が数多く輩出された。
(共同通信)