「沖縄芸能は卑下されていた」米統治下の危機超え「誇り」になった琉球舞踊


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琉球舞踊の動きを説明する玉城節子さん=4月、那覇市

 「沖縄芸能は卑下されていた」。国指定重要無形文化財「琉球舞踊」保持者で、玉城流翔節会家元の玉城節子さん(81)=那覇市=は、米統治下に沖縄の伝統芸能が置かれた状況をこう振り返る。太平洋戦争、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦で人材を失い危機的な状況に陥った琉球舞踊は、1972年の日本復帰を経て「県民の誇りになった」。15日で復帰50年。普及に尽くしてきた歩みを語った。

 41年、那覇市生まれ。生後3カ月で親の仕事のため大阪に移り沖縄戦は逃れたが、10歳だった姉は44年、沖縄を出港した「対馬丸」に乗り、米潜水艦に撃沈され亡くなった。沖縄に残った他の兄や姉ら4人も、戦火の犠牲になった。

 人々は戦後、空き缶で手作りする「カンカラ三線」の音色に合わせ歌い、踊った。「癒やしの一番大きな力となったのが芸能だった」と玉城さん。沖縄に戻り5歳で琉球舞踊の稽古を始め、高校3年で師範免許を取得した。

 愛する琉球舞踊だが、当時は沖縄らしさを良いものとする風潮がなく「沖縄の言葉を使う芸能も良くない。そんな雰囲気があった」と振り返る。学校には、沖縄の言葉を話すと罰として「方言札」を首にかける慣習が、戦前から残っていた。

 米統治下、琉球舞踊を大切にした琉球政府の松岡政保行政主席に定期的に招かれ、米軍幹部を前に踊った。普及のため何度も自腹で欧州に渡った。復帰後は本土の学者が文化的価値に注目し、東京での公演も増えた。沖縄に心を寄せた天皇在位中の上皇さまや、皇后だった上皇后美智子さまに披露。琉球舞踊について会話を交わしたのが思い出だ。

 「沖縄の良さを世界に発信する時代になった。自然だけでなく、芸能も沖縄観光の目玉になるのではないかと思うほどのパワー」。県芸能関連協議会の会長を務める今、感慨深げに50年を振り返る。「孫たちと踊りざんまいというのが私の夢」と、誇りになった伝統文化の継承と発展を見据えた。
(共同通信)