【一問一答】「撤去可能なヘリポート」がいつの間にか…普天間返還、元審議官が振り返る交渉過程


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米軍普天間飛行場

 外務省北米局審議官として米軍普天間飛行場の返還交渉を担当した田中均元外務審議官との一問一答は次の通り。

 ―返還を巡り政府内でどんな議論があったか。

 「1996年2月の首脳会談で返還問題を提起したのは、橋本龍太郎首相の主導だった。事前に橋本首相から相談を受けた際『首脳間で突然、話を出すのは好ましくない』と言った。だが、クリントン大統領から要望を問われた橋本首相は、普天間飛行場の返還希望を伝えた。異例だった」

 ―日米協議はどう進んだか。

 「カート・キャンベル国防次官補代理と会った際に真意を問われた。本気で返還を望んでいる旨を伝え、協議が始まった。海兵隊に知られると反対工作が始まるので秘密裏に進めた。米側は部隊の行き場がなくなると困るので代替施設が必要だと言った。私は『いや、普天間基地と同じものを造るのであれば受け入れられない』と話した」

 ―日米特別行動委員会(SACO)で達した結論は何か。

 「撤去可能な海上施設にするということになった。海に出せば負担は軽くなると考えた。ヘリポートで、飛行場ではない。規模も大きなものではなく、沖縄に負担や騒音を掛けないという意識だった。その後は防衛省が中心に米軍と協議した。結果的に(当初の計画は)つぶれた」

 ―普天間飛行場の返還が実現していない現状をどう考えているか。

 「県と中央政府の関係が非常に悪い。和解する必要がある。普天間飛行場の返還合意当時と比べると大きく安全保障体制が変わっている。改めて日本全体の米軍基地や自衛隊施設の配置を含めて安全保障体制を見直す必要がある」