基地なき未来を追求 復帰50年新報・毎日シンポジウム


社会
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 米国統治下にあった沖縄が日本に復帰して15日で50年となるのを記念したシンポジウム「沖縄復帰50年を問い直す」(毎日新聞社、琉球新報社、一般社団法人アジア調査会共催、BS―TBS後援)が4月28日、東京都内で開かれた。玉城デニー知事、琉球新報の松元剛編集局長、BS―TBS「報道1930」の松原耕二キャスターが基調講演した。玉城知事は、復帰後の沖縄の歩みと、米軍基地の負担の重さを説明。「基地は県経済の発展を阻害している」と主張した。パネルディスカッションでは、玉城知事が五百旗頭真アジア調査会会長、沖縄持続的研究所の真喜屋美樹所長、宮城大蔵上智大教授と議論した。五百旗頭会長は「日米地位協定の改定は、首相が米国大統領に直談判したら可能だ」と述べた。(本文敬称略)【司会は前田浩智・毎日新聞主筆】

シンポジウム「沖縄復帰50年を問い直す」でパネルディスカッションに臨む(右から)玉城デニー知事、宮城大蔵上智大教授、沖縄持続的発展研究所の真喜屋美樹所長、アジア調査会の五百旗頭真会長=4月28日午後、東京都千代田区の日本プレスセンター(毎日新聞提供)

<生活者の視点>ロ侵攻 重なるコザ騒動 玉城知事

 前田 コザ市(現沖縄市)出身の真喜屋さんは、生活者の視点から復帰をどう見てきましたか。

 真喜屋美樹 コザは戦後、極東最大の米軍基地建設に伴い、人が集まった。つまり、嘉手納基地がなければコザという街もなかった。

 基地で働く労働者が多いだけではなく、米兵相手の店なども多く、独特の雰囲気がある街だった。ベトナム戦争時、米兵は米本土からベトナムに行く途中で沖縄に立ち寄った。ベトナムに行ったら帰ってこられないかもしれないから、給料を全て使ってしまえ、ということでにぎわっていた。コザは米軍に苦しめられながらも、置かれた環境を逆手にとって街の文化を作っていた。その個性が50年を経た今、注目されている。

 1968年に、嘉手納基地でB52爆撃機の墜落事故があった。私の家から車で10分ほどの所だ。爆撃機は大量の爆弾を積んでベトナムに出撃していた。事故現場は弾薬庫の250メートルほど手前だったので、地域住民に「もし弾薬庫に引火していたら」と非常に大きな衝撃を与えた。沖縄に住む人たちは最悪の状況を常に考えており、基地と隣り合わせの暮らしは、今も変わらない。

 前田 玉城知事は、父は米兵、母は伊江島出身ということで興味深い経歴をお持ちです。玉城デニー個人としてお話を。

 玉城 父と母が知り合ったのは58年で、私は翌年に生まれた。海兵隊員だった父は米国に戻る際、「一緒に行こう」と母と約束したそうだ。だが、母は知人から「生まれた後に行ったら」と言われ、父を先に米国に行かせた。母は最終的に「米国に行けば苦労する」という声に押され、米国へ行かないという決断をした。

 何回か父から手紙が届いたそうだが、母は焼き捨てたという。だから、私は父の名前はかろうじて知っているが、出身や顔はいっさい知らされていない。訪米した際、ワシントンにある米兵の墓地で、おやじの名前を探してみたが、見つからなかった。

 生まれた旧与那城村(現うるま市)も、近くに基地があった。米兵相手のバーが建ち並ぶ所で、米海軍の船が入ると、店は24時間開いた。そこで働くお姉さんたちは寮のような所に寝泊まりし、交代で働いていた。生きるために米兵を相手にするという環境で育った。

 70年12月の「コザ騒動」は忘れもしない。土曜日の夜、外が異様にうるさかった。その日は、母が早く寝るようせかす。ドキドキして、翌朝早く起きて事件の現場に行くと、車がひっくり返されて燃え、真っ黒焦げになっている。煙が上っている車もあった。たくさん見物している人がいたが、みんな静かだった。「何が起こったの。まさか戦争」―そういう印象を持ったのを覚えている。

 ロシア軍のウクライナ侵攻で、マリウポリの街が砲撃で焼けた光景に、当時のコザ騒動の現場が重なって見えた。色がある街が、焼け焦げて破壊され、白黒になっている。戦争の恐怖というのは、どこかで染みついているものがあるんだなと思った。


<今後の展望>首相が米に直接要求を 五百旗頭氏

 前田 今後の真喜屋さんの展望は。

 真喜屋 沖縄の基地を維持しているのは、沖縄振興計画だという指摘がある。沖縄の人間として自省を込めて述べると、振興計画に依存してきた沖縄も努力が足りなかった。他方、地域振興の一番の障害は基地だ。主要な基地が人口と産業の8割が集中する本島中南部にあり、発展の限界は明らかだ。

 基地返還後の跡地利用とは、大規模な再開発のようなものだ。沖縄の基地は民有地が多い。返還まで時間がかかるほど遺産相続などで所有者が増え続け、合意形成が困難になり、跡地利用が難しくなる。近年返還された土地の多くでは、大型商業施設などを誘致してきた。「脱炭素社会」が唱えられる今、跡地利用では再生可能エネルギーを利用した先進的まちづくりを一刻も早く進めるべきだ。

 最後に近隣アジア諸国から見た沖縄は、かつては軍事の要石(キーストーン)だった。今後は平和のキーストーンになれるのか。これは日本の未来にとっても重要だろう。次の世代に「希望のバトン」を渡したい。

 前田 五百旗頭さんから復帰50年の評価と今後について。

 五百旗頭 沖縄が日本に復帰した後も大きな基地負担は残った。それを申し訳ないと思ったのが、橋本龍太郎首相であり、その後の小渕恵三首相も沖縄でサミットを開き、クリントン米大統領を沖縄に呼んだ。さらに、中国の江沢民主席と韓国の金大中大統領を沖縄に招いて握手しようとまで考えた。当時は、元外交官の岡本行夫さんらが何十回も沖縄の市町村を回っては声を聞き、政府に提言できるものを探した。辺野古移設への怒りはもっともだが、半歩でも一歩でも前進ではないか。一緒に未来をつくろうという人が、本土にも沖縄にもいることが大事だ。

 基地は合理化、効率化である程度は県外へ移せるが、すべて撤去できる情勢ではない。中国は冷戦後、軍事費を激増させた。10数年前の東シナ海は日本が優勢だったが、形勢は逆転した。尖閣奪取を公言する中国は中距離ミサイルを大量配備しているが、日米同盟にはない。冷戦後、米国がフィリピンに米軍基地を返還すると、中国は南シナ海のミスチーフ環礁に手を出した。戦後日本は自分から戦争をしかけなければ大丈夫だと信じてきたが、これが現実だ。安全保障の負担が続くにしても、沖縄には平和的な交流の拠点としての役割を伸ばしてもらいたいと思う。

 前田 復帰時の屋良朝苗知事は「沖縄が背負っている十字架は、全国民が負うべきだ」と言っていました。この言葉をかみしめ、考え続けたいと思います。

 来場者 地位協定を改定する手法を政府は本当に考えているか。

 五百旗頭 考えていたらいいが日本政府はお役所。地位協定の改定は、どこの管轄にもなっていない。大事なことは二つある。一つは首相自身が米大統領に向かって毅然(きぜん)として要求する。向こうは動かざるを得なくなる。ただその前には研究が大事だ。何をどうするのか。容易ではないができることは結構ある。タスクフォースのようなものを作り、煮つまったら首相が大統領に面と向かって伝える。どの首相がやれるかはわからないが、ぜひやらなければいけない。

 前田 長野県の女性からウェブからの質問です。本土に住む人たちが協力できることは何ですか。

 玉城 今までは沖縄でも、基地負担軽減となると、基地をなくす、撤去する、米国に持って行かせるが主な論調だった。ところが、このところ沖縄だけの問題にせず、沖縄の基地を引き取ろうと行動している方々が全国にいる。基地があることを自分の事として考えて、どういう形であれば自分たちが引き取れるか、政府がどのような法律を作り、米国とどう話し合うべきかなど、考えようという取り組みだ。もし私たちの街に基地があったら、騒音の被害があったら、川の水が有害物質で汚染されたら、と置き換えて考えてみてほしい。国を動かす権利は国民にある。我々の考え方で政治を動かしていくという基本的なことを、思い返し取り組んでほしい。



<登壇者略歴>

沖縄県知事 玉城デニー氏

 たまき・でにー 1959年沖縄県生まれ。沖縄市議を経て、2009年から衆院議員を4期務め18年10月から現職。

アジア調査会会長 五百旗頭真氏

 いおきべ・まこと 1943年生まれ。神戸大教授、防衛大学校長などを経て、兵庫県立大理事長。2020年6月から宮内庁参与。

沖縄持続的発展研究所所長 真喜屋美樹氏

 まきや・みき 1968年沖縄県生まれ。元普天間飛行場跡地利用検討委員会委員。名桜大准教授を経て現職。

上智大教授 宮城大蔵氏

 みやぎ・たいぞう 1968年生まれ。NHK記者として沖縄放送局に勤務。政策研究大学院大助教授などを経て現職。