大量解雇にストで対抗、復帰後も絶えない雇用トラブル…基地従業員の苦悩<復帰50年夢と現実>7


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復帰前後の基地従業員の混乱について語る玉城清さん=10日、宜野湾市我如古

 ゲート前に、詰め掛けた沖縄の基地従業員たちの苦悩と怒りが渦巻いていた。日本復帰2カ月前の1972年3月、当時全沖縄軍労働組合(全軍労)の書記長だった玉城清さん(81)=宜野湾市=は、嘉手納基地第一ゲート前で米軍の大量解雇に抗議するストライキに参加していた。

 69年11月、日米両政府が沖縄の施政権返還に合意。その後、米軍は経費節減を理由に数千人の大量解雇を発表した。基地従業員らの不満は爆発し、72年3月7日に大規模なストが発生。無期限ストに突入した。

 沖縄の基地従業員は、復帰前のピーク時には米軍の直接雇用だけで約3万人に上った。朝鮮戦争が始まった50年前後、米軍は民間の土地を強制的に囲い込み、大規模な基地を建設して労働者を吸収した。全軍労の歴史を継ぐ全駐労沖縄地区本部の顧問弁護士を務める池宮城紀夫弁護士(82)は「終戦直後は軍関連の仕事ぐらいしか、生きるすべがなかった」と指摘する。

 労働条件の法的保障はないに等しく、米軍の都合で突然解雇されることも珍しくなかった。こうした状況に対抗しようと基地従業員が団結して61年、全軍労を結成した。

池宮城紀夫弁護士

 復帰を機に、基地従業員は、米軍の直接雇用から日本政府による間接雇用に移行した。72年3月のスト時、全軍労は大量解雇問題に加え、労働条件の改善などを要求。玉城さんもほぼ自宅に帰らず、毎日ゲート前に泊まり込んだ。交渉は進展せず、大量解雇問題も解決しないまま、全軍労三役がストの中止指令を出して辞任。1カ月以上続いたストは、尻すぼみのまま終わった。

 全軍労は復帰運動にも積極的に関わり、自らの職場である基地の全面撤去も掲げた。嘉手納基地で電気関係の仕事に就いていた玉城さんは、米軍の基地従業員に対する理不尽な処遇に憤っていた。「生活の不安はあったが、沖縄に基地がそのまま残ってはいけないという気持ちがあった」。やがて復帰すれば、別の時代に移るという期待もあった。だが基地はなくならず、基地従業員の人権の課題も残されたままだ。

 県によると、2020年3月末時点の基地従業員は8957人。かつてのような大量解雇はなくなったものの、米軍の主張をそのまま受け入れた日本政府が日本人従業員に解雇を言い渡すなど、トラブルは後を絶たない。池宮城弁護士は「日本政府は基地をスムーズに提供しようと忖度(そんたく)し、基地で働く自国民の権利をないがしろにしている。沖縄に基地を押し付けるなら、人権を最大限に守るべきだ」と批判する。

 復帰後は全駐労が反戦・平和を掲げて運動を続けた。だが、若い世代との認識のずれから、97年に運動方針から「基地撤去」を下ろすことになる。玉城さんは「基地従業員の苦悩からすると、今の沖縄は思った通りじゃない」と吐露する。「沖縄の理不尽な扱いは歴史的に続いている。復帰50年を検証し、闘い続けていかないといけない」と訴えた。

(中村優希、前森智香子)
(おわり)