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電気店で母の生活支えたい…平川崇賢さん 離島苦の進学、姉が支え…糸洲朝則氏さん 沖縄工業高校(5)<セピア色の春―高校人国記>


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14期生在学中の60周年記念体育祭(「創立90周年記念写真集」より)

 14期生(電気科)で、旧石川市長だった平川崇賢(76)は1945年8月、サイパンの収容所で生まれた。両親とも石川出身で、父は「南洋興発」の製糖工場で働いていた。家族は終戦から1年後、沖縄に戻った。

平川崇賢氏

 平川は伊波小、石川中で学校生活を送った。石川市には映画館が四つあり「映画を見るのは何より楽しみだった」。55年には市内で暮らしていた女児が犠牲になる「由美子ちゃん事件」が起きた。

 平川が中学1年の時、父が交通事故で亡くなった。将来は電気店を立ち上げ母の生活を支えようと、沖縄工業に進むことを決めたが、母は「石川高校にしてくれ」と涙したという。平川は奨学金をもらいながら沖縄工業に通う。

 在学中の思い出といえばアルバイトだ。寮生活では認められず、寮を出て下宿しながら建設作業や那覇港での荷下ろし、夜間のバスのもぎりなどを経験した。稼いだ分は「生活を節約して実家に仕送りした」(平川)。2年途中で寮に戻り、3年は寮長を務めた。シャワーはなく、繁多川の湧き水で水浴びや洗濯をした。

 64年、卒業後に集団就職し埼玉県の小さな電気店で働き始めた。半年で辞め、東京・池袋で新聞配達をしながら専門学校に通い、電気の勉強を続けた。

 日本経済が右肩上がりで東京五輪に沸いていた当時、街中に設置された最新のカラーテレビを視聴している人を数えるアルバイトもした。

 その後沖縄に戻り、71年に地元石川で「日の出電気」を創業。念願だった電気店を経営し、90年から石川市議を3期、2002年から石川市長を務めた。

 寮長だった平川から「厳しくも愛情のある指導を受けた」と笑うのは、公明党県本部代表などを歴任した糸洲朝則(74)=16期(建築科)=だ。平川の二つ下の学年に当たる。

 糸洲は1947年、6人きょうだいの長男として多良間村に生まれた。両親はキビ農家だったが生活は厳しく、かやぶきの家は台風で何度も飛ばされた。

糸洲朝則氏

 農作業の時間が勉強よりも長かった。週末には家計の足しにと近所の農作業を手伝った。「稼いだお金を前に母親がうれしそうな表情をしたことを今でも鮮明に覚えている」。

 皆が貧しい時代にあって、糸洲には夢があった。「大工の棟りょうになって、丈夫な家を両親に造ってあげたい」。沖縄工業への進学を希望するも、難題が降りかかる。

 当時の多良間は交通の便が悪く、願書の提出が間に合わないことがあった。思案の末、那覇で働いていた姉・恵美子の勧めで、中学3年の2学期に首里中に転校した。学費は姉が工面した。今は亡き姉について、糸洲は「人生の岐路にはいつも姉がいた。感謝してもしきれない」と回想する。

 猛勉強の末沖縄工業に合格し、多良間出身者初の寮生になった。寮は規則正しく、勉強と剣道に打ち込んだ。「田舎者で表に出るタイプではなかった」と振り返るが、3年の後期には寮長を任され、恒例だった後輩への「制裁をやめた」。バンカラ気質が残る時代、43人いた入寮同期は卒業時は8人になっていた。

 高校卒業後、民間会社に就職。72年10月には姉を頼って渡米し、多くの学びを得た。沖縄に戻り、75年に1級建築士に合格した。その後、85年、那覇市議となり、96年に県議に転じ、6期務め2020年に引退した。

 「寮生は県内各地域を代表する猛者の集まりで、多くのことを語り合った」。糸洲にとって寮生活は色あせない青春の1ページだ。

 (文中敬称略)
 (當山幸都、吉田健一)


 

 【沖縄工業高校】

1902年6月 首里区立工業徒弟学校として首里区当蔵で開校
 21年6月 県立工業学校となる
 45年4月 米軍空襲で校舎全壊
 48年4月 琉球民政府立工業高校として那覇市安謝で開校
 52年12月 現在の那覇市松川へ校舎移転
 72年5月 日本復帰で県立沖縄工業高校となる
2002年10月 創立100周年記念式典
 14年8月 全国高校総体の重量挙げで宮本昌典が優勝
 21年7月 写真甲子園で優勝