「沖縄返還交渉」を取材した本紙記者が明かす、東京で屋良主席が語った言葉とは・・・


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屋良建議書が出された時代背景や、当時の交渉過程などについて語る三木健氏=4月27日、浦添市

 沖縄の日本復帰に向けた日米交渉が本格化した1968~69年、三木健氏(82)は琉球新報東京支社の記者として外務省に詰め、第一線で日米両政府の動静を追った。膨大なメモや資料を元に2000年には著書「ドキュメント沖縄返還交渉」を発刊。当時の日米交渉や屋良建議書が出された背景について話を聞いた。

 ―日米の返還交渉の本質は何だったか。

 「ベトナム戦争を契機に県内で反戦運動が起き、基地反対の機運が60年代の後半から『反戦復帰運動』という形で高まった。50~60年代初頭は民族的な復帰運動だったが、それが反戦復帰へと変わり、復帰運動の質が変質した。ベトナム戦争末期になると、最高潮を迎え、結局、米国は今度は逆に施政権を手放すことで、基地の自由使用を確保しようとした。沖縄住民の不満を施政権返還という方向に向かわせ、その代償として、基地の実質的な自由使用を手に入れようとしたのが日米交渉だ」

 ―屋良朝苗主席が「復帰措置に関する建議書」を提出した当時の雰囲気、国政の状況は。

 「屋良主席が上京した際の雑談で言った言葉が忘れられない。屋良主席は『沖縄問題のような難しいものは、カミソリみたいな切れる刃ではほどけない。大なたでやらないと解決しない』と言っていた。細かいことにこだわると進まないので、あるときは目を伏せ飲んで、意見を集約する。屋良氏が行動する一つの指針だったのではないか」

 「屋良氏は実直で、駆け引きをしなかった。実直なだけに、政府側は復帰交渉を進めたい屋良氏を抱き込めば、なんとかなると考えていた。反基地運動と、施政権を日本に返すのは一種の民族運動的要素もあり、屋良氏もうまく使い分けていた感じもする。日本政府にとって、反戦運動は別にして、純粋に復帰運動は米国交渉の後押しになると捉えていた。屋良氏はうまくのせられたように見せながらも、沖縄側の要求を最大限突きつけ、なんとか問題解決を進めようとしたのが『屋良建議書』だったのだろう」

 ―沖縄返還から50年がたつが、当時取材する中で思い描いた沖縄と現状をどう考えるか。

 「返還交渉時の、施政権を返す代わりに基地は自由に使う形がいまだに続く。これだけ基地を抱え、そう単純に全面返還は難しいと思うが、今から思えば、復帰直後でも沖縄の基地の整理縮小計画を国家間の取り決めとして合意し、基本的な流れをつくるべきだった。もっと要求すべきで、沖縄側で基地整理縮小に向けた具体的なプランを持って突きつけるという確固たる姿勢があっても良かった」
 (聞き手 池田哲平)