仲宗根政善さんの言葉 「復帰5年」の洞察、今も <おきなわ巡考記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 ひめゆり学徒隊の引率教師だった仲宗根政善さんは1995年に87歳で亡くなった。だが、その著作「ひめゆりと生きて 仲宗根政善日記」に遺(のこ)された言葉は今も輝きを失わず、封印を拒否するほどの強さがある。

 「復帰5年」(77年)の5月15日付で、沖縄に基地が集中していることについて、「だれが自らの郷里へ基地を誘致したいと考える者がいるか」と書き、こう迫る。「これほどの不平等があるだろうか。これほどの差別があるだろうか」。45年後の今、「復帰50年」にも通じる洞察である。

 生前の仲宗根さんを知る人は、そのたたずまい、口調も温厚だったと口をそろえる。水俣病の告発を続けた作家、石牟礼道子さん(2018年、90歳で死去)も「そこに居るだけで人格の光を感じる人」と評したが、「あのおだやかな笑顔には、深い悲しみから来た苦味がかくされている」と言い添えている。

 仲宗根さんは「沖縄今帰仁方言辞典」を編むなど、言語学者としての研究成果を挙げている。しかし、「それほど世の役にはたたぬ」と思い至るほどに平和を願い続けた。戦争を糾(ただ)し、平和への思いを書き記すとき、激するほどに言葉を連ねた。それは、自らの姿に真摯(しんし)に向き合った厳しい自己検証ゆえである。

 ひめゆり平和祈念資料館に掲げられた教え子たちの詩の一節に、「真相を知らずに 戦場へ出て行きました」とある。この言葉ほど、仲宗根さんら教師に反省を強いるものはない。

 戦前、教師を対象にした皇国思想の研修を受け、講演会活動にも取り組んだ。教え子たちには対外戦争の実相を教えきれなかった。こうした時代の潮流に抗(あらが)うには並々ならぬ勇気と、人生を賭(か)けるほどの覚悟が必要だった。仲宗根さんは自責の念を、こう言い表す。「あの場合はしかたなかったと、いくら言い訳をしてみても、それは言い訳にはならない」。

 仲宗根さんは戦後を自省と懺悔(ざんげ)に生きた。真相を語り、二度と教え子を戦場に送らないという決意。戦後15年の60年6月10日付の日記。「我々はひめゆりの塔に一切の行動の指針があると思う」「私共はこの塔にぬかずく時、最も純粋な気持ちになって平和を念ずることができるのである」「平和を守り、真実を生きぬくことが我々の生活信条にならなければならない」。

 基地問題に厳しい言葉を記した「復帰5年」は、沖縄戦の戦没者を追悼する33年忌、ウワイスーコー(終わり焼香)の年でもあった。通常ならこれで一連の法事に区切りをつけることになるが、それでいいのか。仲宗根さんは基地の問題に触れたあと、日記に続ける。

 「沖縄戦で亡くなった人たちを、このようにして神として昇天させ、はるかに去らせてよいのだろうか。われわれは人の子として、いつまでも手を握りしめて離したくない。遠くへ去らしめたくない」「戦争に苦しみ、戦争を憎み、平和を願い続けたそのままの人間として、われわれの心の中にとどめおきたいのである」

 これは仲宗根さんだけの思いではなかった。翌月、6月23日付の琉球新報社説。

 「戦後処理を一刻も早く終わらせ、戦争につながるおそれのある基地の撤去をはかるとともに、悲惨な戦争の体験を、くわしく、正確に記録し、戦争資料を保存し、戦争を知らない子どもたちに、戦争を否定し、平和を維持する決意を固めさせ、子孫にも継承させる。それが33年忌にあたって戦没者への誓いでなければならない」

 こうした認識が45年後の今と寸分の違いもないように見えるのは、戦没者の遺骨が現在も眠る「南部の土」を辺野古新基地建設に投入する計画など、中央政府のこの間の沖縄への対応とまなざしが基本的に変わっていないためだ。沖縄戦も米軍占領も「沖縄を犠牲にして本土を守る」という図式にどれほどの違いがあったのか。そして、「復帰」後も。

 仲宗根さんが言い切った不平等、差別。それを「する側」は時間の闇に溶かそうとしても、「される側」は忘れないし、感じ続ける。「する側」の正体が浮き彫りになったのが、「復帰50年」の時間だったのではないか。

(藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)