戦争につながるもの 肯定も美化もしない<乗松聡子の眼>


社会
この記事を書いた人 Avatar photo 仲井間 郁江
乗松聡子さん

 2月10日に父が亡くなった。1927年中国の漢口生まれ、94歳だった。

 家族だけで葬儀を行い、写真アルバムを友人たちと共有していた。その中には中国の友人もいた。2017年に南京大虐殺80周年で南京を訪れたときに揚子江沿いでたまたま通りがかり、知り合った20代の若者と、通信アプリでずっと文通してきた。

 彼が、送った写真に写っていた、葬儀場の「思い出コーナー」に展示していた父の海軍兵学校時代の制服姿の写真を指して「お父さんは日本兵だったのですね」と言ってきたとき、はっとさせられた。いろいろな遺品が写っている写真の片隅にあった父の軍服姿ではあったが、やはり中国の友人にとってはそれが突出して見えたのである。

 私はこれを何も考えずに南京の友人に送ってしまっていた。日頃、大日本帝国にやられた立場から歴史を見る目を養わなければと言っておきながら、自分の家族のこととなると完全に抜け落ちていた。私は友人に謝罪したら「気にしないでください。お父さんも徴兵されたのでしょう」と返事してきた。ここで私はまた答えに詰まってしまった。父は徴兵されたのではなく、自ら進んで兵学校に入ったのだ。

 当時は、男なら戦争で死ぬのだと教えられ、その中で「どう死ぬか」だけが問題であった、ということは父から聞いていた。父は在学中に敗戦となったので戦争には行っていない。しかし中国の友人を前にはいかなる言い訳も通用しない。軍人であれ、学生であれ、紛れもなく残虐な帝国の一端を担っていたのである。私は深く自分を恥じた。

 父がなぜ漢口で生まれたかも説明しなければいけない。父の父、つまり私の祖父は1868年長崎平戸生まれで、漢学を修めた人間であったが、1896年に中国に渡り、漢口のいわゆる「日本租界」で新聞社を営んでいた。日露戦争では軍属通訳を務めたという。1927年4月、父が2カ月にも満たない赤ん坊のとき、高まる抗日運動や蒋介石の「北伐」の中、家族で日本に引き揚げ、祖父は直後に病死した。

 「租界」とは、治外法権が適用される植民地であった。アヘン戦争後に英国が初めて上海に作り、日清戦争敗戦後、弱体化した中国に集(たか)るかのごとくに急増した、欧米列強や日本による中国への経済的軍事的侵略の拠点であった。中国の南北を結ぶ水運や鉄道の要衝である漢口の租界も、日清戦争後の下関条約の結果として可能になった(大里浩秋・孫安石編著「中国における日本租界 重慶・漢口・杭州・上海」御茶の水書房、2006年)。漢詩もたしなむほど中国に親しんだ祖父が、結局大日本帝国の侵略的国益にくみする活動を中国で行っていたことは、慚愧(ざんき)の念にさいなまれる。

 5月の今、77年前の沖縄戦に思いをはせる。沖縄戦は中国での侵略戦争と直結しているとの認識を深めた一冊が、沖本裕司著「中国での戦争体験記を読む~沖縄出身兵170人の証言」(増補改訂版2021年)である。中国と同様に19世紀後半の大日本帝国拡大の餌食とされた琉球/沖縄から1万を超えると言われる人々が徴兵され、その元兵士たちが、大陸での凄惨(せいさん)な戦争の実態を証言している。

 戦争につながるあらゆるものを、美化も肯定もしないとの思いを新たにしたい。

(「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)