「その後、消息不明」の意味 「墓碑銘」の人々<おきなわ巡考記>


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 ひめゆり平和祈念資料館が編集した「墓碑銘―亡き師亡き友に捧ぐ―」を読み返す。1945年の沖縄戦と、その前年の疎開船「対馬丸」沈没、軽便鉄道爆発と戦闘後の戦傷病死など沖縄戦関連で亡くなった沖縄師範学校女子部(女師)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)の生徒、教師についての記録である。それぞれの人柄と死亡時の状況についての記述の中で、戦場で誰にもみとられずに命が絶えたことを示す「その後、消息不明」の文字に息がつまる。身が震える。

 女師と一高女の引率教師を含むひめゆり学徒隊240人の戦没者は136人。その86%に当たる117人は解散命令(45年6月18日)の後に亡くなった。うち42人が、学友に目撃されたのを最後に「その後、消息不明」である。

 「墓碑銘」には学徒隊に加え、91人の戦没者も記録されている。低学年の人、自宅近くの部隊に看護、炊事などの作業で協力した人たちだ。このうちの約30人も「消息不明」の死だ。女師、一高女だけで計70人を超える人たちが、死の状況も分からないまま亡くなったのだ。

 人間は個々に名前があるように、その人となり、たどる人生の道はそれぞれに異なる。一人ひとりのかけがえのない個別の命を凝視してこそ、戦争という異常事態の実相が浮き彫りになる。

 限られた紙数だが、この記録から無作為に選んだ人の具体的な生きた証しと死の直前の姿を描きたい(年齢は当時)。

 新垣キヨさん。女師本科2年生、18歳。

 真面目で優しい人だった。責任感が強く、学級委員をしていた。動員された陸軍病院では第1外科の班長だった。解散命令で壕を出るように促されると、皆がためらう中を真っ先に出た。翌日、山城丘陵でソテツの陰に隠れていた下級生の所に「一緒に入れて」と合流。攻撃を受けて肩をえぐられた。下級生に介抱してもらい、攻撃がやむのを待った。下級生が様子を探るためにその場を離れ、戻った時には、姿が見えなくなっていた。その後の消息は不明。

 妹で一高女3年生のマサさん(16歳)も、優しい人だった。家族6人と共に自決した。防衛隊の父、台湾に召集された兄だけが生き残った。

 山里トヨさん、安村菊枝さん。共に女師本科2年生、同い年の19歳。仲良しだった。

 山里さんはおおらかでユーモラス。いつも周囲に笑顔が絶えなかった。父からの封書をラブレターと間違われ、舎監の教師の前で開封させられた「事件」が話題になった。その父は戦後、「自分が師範学校入学を勧めなければ、娘は死ななかった」と号泣した。

 安村さんは何事にも動じない落ち着いた人だった。授業中に急に問題を出されて指名されても、自信を持って答えた。澄んだ声で朗読し、達筆だった。周りに臆せず、わが道を行くタイプだった。

 解散命令後、2人は米軍の攻撃の中、山城丘陵をゆっくりと歩いていた。「急ごう」という声には「お先にどうぞ」と、そろって笑顔を返した。2人のその後の消息は不明。

 知念ノブさん。一高女4年生、16歳。

 竹を割ったようなさっぱりした性格の人だった。スポーツを好み、勉強にも励んだ。男の子のように振る舞っていたが、照れ屋でもあった。

 解散命令後、学友たちと山城丘陵に逃れた。攻撃を受け学友が負傷した。「軍医を呼んでくる」と、肩にかけた水筒をカラカラとならして丘を駆け降りた。その後、消息不明。

 到底、ここでは全員を書き切れない。こうした人々の短いが、個性豊かな生を無残に断ち切り、戦場に放置したのは戦争だ。

 戦後77年の今、南西諸島にミサイル配備の準備が進む。戦没者の遺骨がまじった土を辺野古の新基地建設に投入する計画は消えていない。勇ましさを装う言説も目にする。

 一体、誰が戦争を望むのか。魂(まぶい)がさまよっている「消息不明」の人たちの尊厳を、翻弄(ほんろう)してはならぬ。これ以上、毀損(きそん)してもならぬ。想像の翼を広げて耳を澄ますと、黙して語らぬ人の声が聞こえてくる。

(藤原健、元毎日新聞大阪本社編集局長、那覇市在住)