女性舞踊家のパイオニア5人を紹介 多様な芸系の継承が急務 国立劇場おきなわで講座


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女性舞踊家について講話する波照間永子氏=6月15日、浦添市の国立劇場おきなわ(同劇場提供)

 国立劇場おきなわが6月15日、公演記録鑑賞と講座「近現代の女性舞踊家」を同劇場小劇場で開催した。琉球舞踊研究家で明治大学情報コミュニケーション学部教授の波照間永子(ながこ)氏が講師を務め、女性舞踊家のパイオニアとなった5人を、近現代の舞踊史に位置付けて紹介した。

 紹介されたのは女性舞踊家の第一世代とされる新垣芳子(1918~40)、比嘉澄子(1922~2005)、真境名佳子(1919~2005)、比嘉清子(1915~93)、山田貞子(1927~95)。

 新垣松含の娘・芳子は、1936年に東京の日本青年館で開催された「琉球古典芸能大会」に松含や玉城盛重らと共に出演した。男性舞踊家と同じ舞台を踏んだ女性舞踊家として、確かな足跡を残した。37年に松含が他界したため、芳子は20歳で松陰会を継承し鳩芳会(きゅうほうかい)と改称し、妹の澄子が代稽古を任された。芳子と澄子は日劇レビューに参画し、雑踊を中心に琉舞を本土に紹介した。

 将来を嘱望されたが早世した芳子から後を継いだ澄子は40年、女性舞踊家最初の舞踊研究所を開設し、松含芸の継承に尽力した。

 16歳で盛重に弟子入りした佳子は「盛重芸」を継承・再構築し、女芸を確立した舞踊家として紹介された。佳子は、1954年沖縄タイムス芸術祭の審査員を務め、57年、タイムス社が設けた琉球舞踊の型を検討する委員会の委員にも名を連ねた。委員会では、盛重の伝承を規範とする方向で型の検証が行われ、佳子の提示する型が多く採用されたという。

 一方で、型を統一する試みを受け入れられず、委員を辞した人もおり、その一人が清子だった。清子は屋我良勝から女踊と組踊、嵩原安詩(たちばるあんし)から「柳」「伊野波節」「芋引」などの古典女踊を習い、二才踊を盛重の弟子・謝花寛温(かんおん)、鳩間節を比嘉正義に教わった。読谷山親雲上の系譜をひく女踊の名手だった屋我と嵩原の古典女踊の継承と「柳」「芋引」の復活・伝承という功績を残した。

 波照間氏は「佳子が盛重から引き継ぎ再構築した演目と、清子が良勝・安詩から受け継ぎ復活した演目の両輪があったから、古典女踊が厚みと多様性を持ち今に伝わっている」と語った。

 最後は「むんじゅる」を得意芸とし、「茶屋節」など創作活動でも才能を発揮した貞子を紹介した。貞子は、5歳で沖縄芝居役者の大見謝恒幸(こうこう)に師事し「かぎやで風」「上り口説」など古典女踊以外の演目を習い、11歳で良勝より古典女踊や「花風」「浜千鳥」を習得し、その後田代タカ子らに師事した。20代で東京の学校でデザインを学びながら、日本舞踊家にも師事し、創作舞踊を探求した。

 波照間氏は「矢野輝雄は戦後の女流舞踊家時代の特徴を『舞踊そのものが芸術として洗練されるに至った』と記している。洗練とはRe Fineで、微細な点に注意して改良するという意味。再改良と再創造の営みによって生み出された成果が、女芸の特質といえる。そこには舞踊を構成する諸要素を練り直すことで、芸の質を高め更新する再創造の知と実践が息づいていたことだろう。今後は先人が残した、多様な芸系の継承と調査研究が急務だ」と語った。
 (藤村謙吾)