「平和の礎」読み上げ 名前が生む反戦の誓い <乗松聡子の眼>


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 沖縄時間の6月22日午前3時、「沖縄『平和の礎』名前を読み上げる集い」にカナダからオンライン参加した。「平和の礎」に刻まれている24万1686名の人々の名前を6月12日から23日にかけて交代で読み上げるという企画は、実行委員会によると、沖縄および日本全国、そして米国、台湾、アイルランド、コロンビア、マダガスカルから、年齢は保育園児から97歳までの参加があったという。

 私が読み上げたのは与那城町(当時)の平安座、桃原出身の92名と、北海道出身の407名であった。与那城の方々はフィリピン、サイパン、テニアン、パラオなどで多く亡くなっている。0歳から87歳までの方々が命を落としたむごい戦闘は想像に余りある。北海道は沖縄県外で最多の戦死者が出た場所であり、「礎」にも1万人以上が刻銘されている。アイヌの人々もこの中にいるのだろうと思いながら読んだ。

 一人一人の名前を読み上げることはその人の人生と失われた命に一瞬でも出会うことであり、湧き上がる感情と、正確に読まなければとの使命感が自分の中でせめぎ合っていた。

 読み終わった後、実行委員会の宮城千恵さんから感想を聞かれた。宮城さんの祖父母は渡嘉敷島の強制集団死で亡くなった。「礎」を作った故大田昌秀元沖縄県知事を何度も一緒に訪ねたことがある友人だ。この読み上げ企画が始まった6月12日は大田さんの5周忌でもあり、ご存命であれば97歳の誕生日でもあった。宮城さんから大田さんの思い出を聞かれ、亡くなる直前にお会いしたときの話をした。

 私が大田さんに「沖縄戦の記憶を継承していきたいです」と伝えたら、大田さんはすかさず「それより大事なのは基地を造らせないということだ」と、少々語気を強めて言ったことが印象に残っている。「礎」や「平和祈念資料館」など平和事業は、何よりも、再び戦争をさせない、基地をなくし造らせないとの信念の下に行われたということを再認識した。

 アメリカン大学のピーター・カズニック教授は2013年にオリバー・ストーン監督と沖縄を訪問し、石原昌家沖縄国際大学名誉教授の案内で「礎」を回った。波打つように果てしなく広がる石の間を練り歩きながら彼が連想したのはワシントンDCにある「ベトナム戦没者追悼碑」であった。

 碑には5万8千余の米兵の名が刻まれているが、ベトナム戦争の総死者数は約380万人にも上ると言われている。

 カズニック氏によると、この碑の長さは492フィート(約150メートル)だが、「平和の礎」のように全ての戦没者を刻銘したら8マイル(約13キロメートル)にもなるという。氏は、沖縄の「礎」は、「世界が見習うべき、反戦のための戦争記憶」であると言っていた。

 『沖縄「平和の礎」はいかにして創られたか』(高山朝光・比嘉博・石原昌家編著、高文研)が6月23日「慰霊の日」に出版された。世界まれなる追悼碑の意義は、刻銘委員会座長を務めた石原氏による言葉「人間に二度と戦争をさせない方法は、白骨累々たる戦場の跡をそのままにしておけば、そこでは、戦争を起こすことはできない」(同書69頁)に集約される。

 安倍晋三元首相が殺害された衝撃の中で7月10日に行われた参院選で与党が圧勝し、衆参両院で改憲勢力が3分の2以上の議席を占めた。今こそ「礎」の精神を胸に刻み、憲法を守る。絶対に沖縄を戦場にはしない―。その誓いを新たにしている。

 (「アジア太平洋ジャーナル・ジャパンフォーカス」エディター)